(前回「大坂街道(東海道五十七次:淀から八幡へ」より続く)
一の鳥居をくぐり、石清水八幡宮の境内に入ります。
岡田精司『京の社ー神と仏の千三百年ー』(ちくま学芸文庫、2022年)によれば、
この社は朝廷とのかかわりが深いばかりでなく、歴史上では中世武士団の守護神の展開においても興味深い神社です。

例えば、北畠親房『神皇正統記』*の巻四、清和天皇の項に、
又この御時、宇佐の八幡大菩薩皇城の南、男山石清水にうつり給。天皇聞食て勅使をつかはし、その所を點じ、もろもろのたくみにおほせて、新宮をつくりて宗廟に擬せらる(鎮座の次第は上にみえたり。)
と書かれているように、石清水八幡は清和天皇ゆかりの宮。
文献上の初出は、延喜元(901)年成立という『日本三代實錄』巻五の貞観三(861)年五月十五日条でしょうか。
奉幣祈雨。告文曰。天皇我詔旨止掛畏攴八幡大菩薩
続けて巻十の貞観七(865)年四月十七日条に、
遣従五位下行木工権助和氣朝臣彜範 。向石清水八幡大菩薩宮。奉楯矛并御鞍 。告文云。 天皇我 詔旨度。 掛畏岐 石清水坐八幡大菩薩乃 廣前尓申給止申久。新宮構造天波。楯桙及種々神財可奉出。
また巻二十九、貞観十八年八月十三日条に、
去貞観二年奉為國家 。祈請大菩薩。奉移此間 。望請准宇佐宮。
とあるので、貞観二年、宇佐八幡から「八幡大菩薩」が勧請され、貞観七年に新宮が構造されたということになります。

現地に立つ案内板によれば、「平安時代から現代まで240回以上の行幸・御幸」があり、また、源氏も「氏神として篤く信仰し、武士が各地に勧請したため全国に広がりました」。
例えば、『曾我物語』**巻第二に、
仰ぎて願はくは、八幡大菩薩。頼朝が先祖八幡太郎義家は、男山石清水参籠の時、御示現にて、大菩薩の御子となり、八幡太郎と号したり。
野口実『源義家ー天下第一の武勇の士ー』(日本史リブレット022、山川出版社、2012年)にも、
義家が、のちに河内源氏の氏神とされるようになる石清水八幡宮で元服をとげ、八幡太郎と称されたことはよく知られている。
と書かれています。
さて、一の鳥居から参道を進むと、「放生池」。
前を流れる川も「放生川」なのは、岡田精司前掲書によれば、かつて「放生会」が行なわれていたことの名残り。
八月十五日に、仏教の殺生会に基づく法要と奏楽が行なわれ、その後、魚鳥を放っていたようです。
上画像は、『都名所圖會』の挿圖「八幡神宮寺」。
放生會 は例祭八月十五日なり(略)
放生川 八月十六日放生供養ありて、放生亭より魚鳥を放しける
さて、放生池を横に見て、参道をさらに進むと、正面に門が見えてきました。
上図は、『都名所圖會』巻五朱雀の挿圖「八幡 神宮寺」と「八幡 御旅所疫神社 阿弥陀堂」(部分)。
疫神堂 一鳥居の南、廊下の内にあり、此所八幡宮御旅所なり
本地堂 疫神堂の西に隣る。極楽寺と稱す。本尊は阿弥陀佛、脇士は観音、勢至を安置す。此三尊は本殿の御正軆なり。
阿弥陀三尊が、本殿の本地仏だったようです。
ただ、岡田精司前掲書によれば、極楽寺は鳥羽伏見の戦いで焼失。
現在の「頓宮」は、再建によるまったく新しい形の建物であり、九月十五日の早晩、男山山上の本殿から神輿の渡御があり、夕方に神輿が本殿に戻る「石清水祭」が営まれているそうです。
ところで、石清水が登場する古典といえば、やはり『徒然草』***の第五十二段でしょうか。
仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
私も年寄るまで石清水を拝んでいないことを心うく覚え、思い立って伏見から徒歩により詣でたのですが、
さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。
山上に八幡宮があることを知らず、麓の極楽寺や高良社を拝んで「かばかりと心得て帰りにけり」という仁和寺の法師を「先達」として、
私は「二の鳥居」から表参道へ。
かつて神仏習合の時代、石清水には多くの坊があり、「男山四十八坊」と呼ばれていたそうで、
例えば、東谷の「橘本坊」は足利氏の祈願所。
中谷には「中坊」、現在の社務所のあたりには「椿坊」も。
さらに石段を昇っていくと、三の鳥居が見えてきました。
(次回に続く)
*北畠親房『神皇正統記』(岩波文庫、1934年)
**『新編日本文学全集63 曾我物語』(小学館、2002年)
***『新訂徒然草』(岩波文庫、1985年改版)