(「石清水八幡宮(前)」より続く)

 

 

 石清水八幡宮が登場する古典がどれだけあるのか、見当もつかないのですが、前回は『曾我物語』と『徒然草』だったので、今回は私の知るところで『土佐物語』、『源氏物語』、そして『新古今和歌集』より、該当箇所を見ていただこうかと思います。

 

 紀貫之『土佐日記』*を見ると、

 

 今宵、鵜殿といふところに泊る。

 十日。さはることありて、上らず。

 十一日。雨いささかに降りて、やみぬ。かくてさし上るに、東のかたに山の横ほれるを見て、人に問へば、八幡の宮といふ。これを聞きてよろこびて、人々拝み奉る。

 山崎の橋見ゆ。うれしきことかぎりなし。

 

 承平五(935)年二月十一日のことですが、東の方に、八幡の宮を見て喜び、拝み奉った。 

 「鵜殿」は現在の高槻市域なので、おそらくは山崎まで船を曳き上った。

 「うれしきことかぎりなし」は、都が近くなったよろこびでしょうか。

 

 続けて、『源氏物語』の「玉蔓(たまかづら)」**を見ると、

 

 「神仏こそは、さるべき方にも導き知らせたてまつり給はめ。近きほどに、八幡の宮と申すは(略)いま都に帰りて、かくなむ御験を得てまかり上りたると、早く申し給へ。」

とて、八幡に詣でさせたてまつる。それのわたり知れる人に言ひ尋ねて、五師とて、早く親の語らひし大徳残れるを呼び取りて、詣でさせたてまつる。

 

 「五師」とは「御師」でしょうか。豊後介(玉蔓の乳母の長男)が玉蔓に、詣でさせ奉ったようです。

 

 物語ではなく、和歌集ということなら、『新古今和歌集』***巻第十九「神祇歌」の1863番に、

 

ありきつつきつつ見れどもいさぎよき人の心をわれ忘れめや

 石清水の御歌といへり。

 

また、1887番に

 

 八幡宮の権宮にて年久しかりけることを恨みて、御神楽の夜参りて、榊に結び付け侍りける      法印成清 

 榊葉にそのいふかひはなけれども神に心をかけぬ間ぞなき

 

という歌があります。

 「諸家系圖簒」****巻之三十「社家第三」の「石清水八幡宮祠官系圖」を見ると、「成清」(じょうせい)は、

 

第卅別當第十二検校号高野検校母花園左大臣家小大進局

 

別當になっているので、ご加護があったということになるでしょうか。 

 ちなみに彼の母は花園左大臣家小大進(こだいしん)局。同系図に「二条院局 歌仙」と書かれる小侍従局は彼の姉で、新古今に七首入選しています。

  

 また、父の光清は、五代の別当で

 

五代別當号垂井 師主天台座主僧正仁覚嘉保元年出家年十一


 天台座主仁覚を師主として出家しているので、当時の石清水八幡宮祠官は天台系だったでしょうか。

 

 秋里籬島『都名所圖會』(1780年)によれば、

 

三の鳥居 大師堂の前にあり(略)

元三大師堂 大師の御影は卿の君の作なり。はじめは比叡山にあり。 

 

 

 さて、かつては「元三大師堂」が前にあったのでしょうが、 

 

 

「三の鳥居」をくぐり、参道を北に進むと、。
 
 
南総門が見えてきました。
 
南総門は1938年の再建とのことですが、
 
 
その先の楼門や本殿は、1634年徳川家光による再建で、2016年「国宝」に。
 
 
この日も、多くの参詣者が訪れていました。
 
 
  今日最後は、本殿裏に鎮座する摂末社の画像をご覧下さい。
 
 
 「若宮社」、
 
 
「北総門」。
 
 
 続けて上画像は、左から校倉、住吉社、一童社。
 
 この後は、裏参道を下り、京阪の石清水八幡宮駅に向かいました。
 
*『新潮日本古典集成 土佐日記 貫之集』(新潮社、1988年)
**『源氏物語(四)』(岩波文庫、2018年)
***『新訂 古今和歌集』(岩波文庫、1959年改版)
****国立公文書館デジタルアーカイブ