先日、臨済宗大本山の建仁寺に行ってきました。
昨年、大和小路通を歩いた折には、西門が工事中(上画像)で入れなかったので、
今回は気持ちも新たに、花見小路通から北門を入って、境内へ。
ご存知の方も多くいらっしゃるのでしょうが、同寺は、京都最古の禅寺。
同寺のウェブページ「建仁寺を知る」を見ると、
建仁寺は建仁二年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称します。
東山建仁寺は、建仁二年(1202)、栄西禅師の建立。
開山千光祖師明庵栄西(みんなんようさい)禅師。永治元年(1141年)4月20日、備中(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽(かや)氏の子として誕生しました。
栄西は、「ようさい」と読むようです。
上画像は、室町時代の建築という「方丈」(国重文)。
続けては、「法堂」。
「望闕楼」との額が掲げられた「三門」。
その南には、八坂通に面して「勅使門」(国重文)。
鎌倉時代後期のものとされる、『沙石集』巻十*の「三 建仁寺の本願僧正の事」に、
故建仁寺の本願僧正、戒律を學し威儀を守リ、天台眞言禅門いづれも學し行じ給ひ、念佛をも人にすすめられけり。
もとは天台・真言・禅門の三宗兼学であり、
いまだ葉上房の阿闍梨と申しける時、宋朝に渡りて、如法の衣鉢を受け、佛法を傳ふ
二度にわたり入宋し、
申す旨あらば聞食し入らるべき由、重ねて宣下ありければ、寺建立の志を申されけるよりて、建仁寺を建てられけり。
建仁寺を建立。
興禅護国論といふ文を作り給へり。
『興禅護国論』を著し、
七月四日、明日終るべき由披露そ、説法めでたくし給ひけ
り。人々最後の遺戒と、哀れに思へり。次日、勅使たちたりけるに、今日入滅すべき由申さる。門徒の僧共は、よしなき披露かなと、あやぶみ思ひける程に、其日の日中、倚座に坐して、安然として化し給へり。勅使道にて、紫雲の立つを見けり。
建保三年(1215)、建仁寺にて遷化(入滅)された。
上画像は「扶桑佛心宗第一開山 千光祖師榮西禅師入定塔」との石碑の立つ、栄西禅師の墓所「開山堂」の楼門。
道元禅師も、栄西の弟子明全和尚に師事、建仁寺で修行したので、『正法眼蔵随聞記』**を読んでいると、
亦有る時、僧正の門弟の僧等の云く、今の建仁寺の寺ら屋敷、川原に近し、後代に水難ありぬべしと。僧正の云く、我れ寺の後代の亡失、是れを思ふべからず。西天の祇園精舎もいしずゑばかりとゞまれり。然あれども寺院建立の功徳失すべからず。亦当時一年半年の行道、其の功徳莫大なるべしと。
栄西(僧正)の言葉を知ることができます。
この後は、西門から大和大路通に出て、(確かに鴨川に近いことは近いなあと思いながらも)、京阪の祇園四条駅に向かいました。
*無住『沙石集 下巻』(岩波文庫、1943年)
**懐奘編『正法眼蔵随聞記』(岩波文庫、1982年改版)









