『扶桑略記』第廿三*によれば、昌泰元年十月二十八日、宇多上皇は竜田山を経て、河内の国に入りました。

 

 経龍田山。入河内國。龍田是自古名山勝境也

 

 また、同記第廿八*によれば、治安三年十月二十七日、藤原道長は、龍田から亀瀬を越え、道明寺に向かっています。

 

 指河内國。進發之間。龜瀬山之嵐。紅葉影脆。龍田川之浪。白花聲寒

 

 河内の国を指して、龜瀬山を越えたものの嵐、龍田川も白浪が立っていた。

 

 昏黒御河内国道明寺。國司爲職装束食堂。帷帳之餝。壮麗云盡。朝夕之儲。

 

 しかし、暗くなってから着いた道明寺では、国司からの接待を受けたようです。

 

 当時、彼らがどのようなルートを辿っていたかは、わかりませんが、龍田越は、大和から河内に出る主要な経路。

 

 『萬葉集』巻二十*にも、大伴家持の、

 

   ひとり龍田山の櫻花を惜める歌一首

 

 龍田山見つつ越え來し櫻花散りか過ぎなむわが歸るとに

 

という一首があります。

 

 

 上画像は、峠集落に立つ地蔵堂と

 

 

峠八幡神社。

 

 

石段を昇ってみると、小さな祠がありました。

 

 

 竜田道に戻り、JR三郷駅に向かうと、

 

 

今年建替えられたという「関の地蔵」

 

 

 『日本書紀』巻第二十九***に、

 

 是の月(八年十一月)に、初めて関を竜田山・大坂山に置く。

 

とあるので、竜田山のどこかはわかりませんが当時、関が置かれていた。

 

 

 また、同巻第二十八***に、

 

 三百の軍士を率て、竜田に距かしむ

 

という記事もあるので、竜田は当時、軍事上の要衝だったということになるでしょうか。

 

 

 磐瀬の杜には、「鏡女王」の歌碑。

 

 出典は、『万葉集』巻八ー1419で****、

 

  鏡王女の歌一首

 神奈備の伊波瀬の社の呼子鳥いたくな鳴きそ我が戀益る

 

 

 

 続けて上画像は、三郷駅前の万葉歌碑(犬養孝書)。

 

 

 出典は、『万葉集』巻九ー1748で****、

   

   反歌

 わが行は七日は過ぎじ龍田彦ゆめこの花を風にな散らし

 

 題詞に「春三月、諸卿大夫等、難波に下りし時の歌二首并に短歌」とあるので、諸卿大夫らが難波に下った折の作。

 龍田彦と龍田姫の男女二神は当時、風の神とされていました。

 

 

 その龍田彦と龍田姫を祀るのが龍田大社。

 

 次回は、龍田大社から信貴山下駅、さらに龍田川駅の画像をご覧いただこうかと思っています。

 

 今日も、ここまでご覧いただき、どうもありがとうございました。

 

*『國史大系』第六巻(経済雑誌社、1897年)

**『新訂 新訓 万葉集 下巻』(岩波文庫、1955年改版)

***『日本書紀(五)』(岩波文庫、1995年)

****『新訂 新訓 万葉集 上巻』(岩波文庫、1954年改版)