(前回「中山道摺針峠」より続く)

 

 

 摺針峠を出て、中山道を番場宿に向かいます。

 

 

 番場宿は、中山道62番目の宿場町で、

 

 

 秋里籬島『木曾路名所圖會』によれば、

 

 磨針嶺をこえて坂路をあゆめば、程もなく番場の驛にいたる。此宿は山家なれば、農家あるは樵夫ありて、旅舎も麁なり。

 

 

番場の集落に入っていくと、「番場史料館」。 

 

 

 私は近代美術のことはよくわからないのですが、彫刻家泉亮之(すけゆき)の生家とのことでした。

 

 

 ところで、この番場宿の名所と言えば、『木曾路名所圖會』に、

 

 八葉山蓮華寺 番場の驛中にあり。時宗。

 

 

六波羅山 寺より向にあたる山をいふ。元弘三年六波羅四百三十餘人自害せしを、こゝにうずみし塚なり。

 

 

また、大田南畝『壬戌紀行』に、

 

 番場の驛にいれば右に八葉山といへる額をかけし寺あり、これ蓮華寺といふ道場なり、元弘の昔六波羅の越後守仲時此寺にて自害せし

 

と書かれる「八葉山蓮華寺」。 

 

 

 『太平記』巻第九を見ると、

 

 去程に、両六波羅京都の合戦に打負て、関東へ被落由披露有ければ、安宅・篠原・日夏・老曾・愛智川・小野・四十九院・摺針・番場・醒井・柏原、其外伊吹山の麓、鈴鹿河の辺の山立・強盜・溢者共二三千人、一夜の程に馳集て、先帝第五の宮御遁世の体にて、伊吹の麓に忍で御坐有けるを、大将に取奉て、錦の御旗を差挙げ、東山道第一の難所、番馬の宿の東なる、小山の峯に取上り、岸の下なる細道を中に夾みて待懸たり。

 

 番場は東山道第一の難所であり、

 

 番場の峠を越えんとする所に、數千の敵道を仲にはさみ、楯を一面にならべ、矢前をそろへて待ちかけたり。

 

 数千の敵に待ち伏せされ、六波羅探題北条仲時やその郎党四百三十餘人が、自害したようです。

 

 

さて、番場の集落を北に歩いていくと、噸屋場趾があり、

 

 

本陣跡があり、

 

 

脇本陣跡がありました。

 

 

 滋賀県道240号線樋口岩脇線との交差点の南西角には、「米原 汽車 汽船 道」の道標。

 

 

 

北西角には、「番場宿」石碑と「番場忠太郎像」がありました。

 

 番場忠太郎は今、どれくらいの知名度があるのかわかりませんが、長谷川伸の戯曲『瞼の母』(1930年)の主人公。 

 

ところは江州阪田の郡、醒が井から南へ一里、磨針峠の山の宿場で番場という処がござんす。そこのあッしは。

 

おきなが屋忠兵衛という、六代つづいた旅籠屋をご存じでござんすか。 

 

 五歳の時に生き別れた「瞼の母」を探しに江戸へ向かうのですが、・・・・・・という物語です。

 

 

 さて、中山道をさらに進んでいくと、「久禮の一里塚」の案内板がありました。

 

 大田南畝『壬戌紀行』によれば、 

 

 一里塚をへて門根村なり。樽水といふを土橋よりわたりて樋口村あり

 

 『木曽路名所圖會』では、

 

番場の宿を行きて、かどねといふ所に至る。こゝよりも米原への道あり。樋口村石打を通りて、名におふさめが井に着く。

 

 私も、樋口村を通りて、この日の目的地さめが井に向かいました。