今日は長崎関係の地図をいくつかご覧下さい。

 

 

 上図は、1949年地理調査所発行の二十万分一図「雲仙國立公園」(部分)。

 

 長崎半島の西に広がる長崎湾は多島海・リアス海岸で、湾奥に長崎港があり、長崎市があります。

 

 長崎は私の好きな街。

 

 歴史があり、見所も多く、食事もおいしい。

 

 時々行きたくなるのですが、私の現住所からはそう簡単に行ける所ではなく、地図やガイドブックを見て、その気になったりしています。

 

 

 

 上画像は、長崎市商工課『ながさき』。

 

 裏表紙に(昭和16年5月17日 長崎要塞司令部検閲済)とあったり、裏見返しに「長崎市附近は要塞地帯でありますから、撮影模寫の場合は長崎要塞司令部の許可を要します」と書かれているのが、時代を感じさせます。

 

 

 次は同冊子より表見返し「長崎ヲ中心トシタル九州交通畧圖」。

  門司港から延びる航路が「至阪神」「至大連 天津 青島」「至上海 基隆方面」であるのに対し、長崎から延びる航路は「至上海」です。

 

 本文を見ると、

 

昭和5年には臨海鐵道も開通致しまして、一萬噸近い大船の接岸、荷役も至極便利となり、

 

当時は「出島岸壁」までの臨海鉄道がありました。

 

 

 上図も同冊子からですが、省線が「出島岸壁」まで描かれ、長崎港に延びる破線は「日支連絡船」。

 

 長崎市『長崎市制五十年史』(1939年)によれば、

 

 長崎の海の玄関たる出島岸壁は長さ二百六十間、幅六間、水深三十六尺で、其の南半部の竣工を待って、大正十二年五月四日、初めて日支連絡船上海丸が接岸し、長崎港海陸連絡に新紀元を劃し、全部完成の上九月十六日連絡船が二隻とも接岸し、以後日支連絡船並に大連航路の繋留を見つゝある。

 

 また、三菱造船株式会社長崎造船所職工課 編『三菱長崎造船所史 第一』(三菱造船長崎造船所職工課、1928年) によれば、

 

 一二、二 日本郵船會社日支連絡船長崎丸、上海丸就航。

 

 前々回の長崎旅行は出島にグラバー園、前回は大浦天主堂やキリシタン博物館+浦上の街歩きという旅だったので、

 

 

 今回はまだ行ったことのない唐寺や孔子廟をまわり、新地中華街で昼食にしようか・・・、何か中国を感じられる旅にしたいなと、目下計画中です。

 

 ちなみに、上画像は、同冊子より、長崎にある唐寺の一つ「崇福寺」です。