(前回「中山道今須宿」より続く)

 

 中山道今須宿を出て、関ヶ原宿に向かいます。

 

 

 秋里籬島『木曽路名所圖會』巻二によれば、関ヶ原までは一里の道のりです。

 

 

 上画像は、常磐地蔵。

 

 

続けては「黒血川」。

 

 秋里籬島『木曽路名所圖會』を見ると、

 

 黒血川 今須の東、山中村の北の方の流をいふ。川幅いと狭し。

 

 「川幅いと狭し」ではあるのですが、『太平記』の巻十八に、

 

二月四日都ヲ立。同六日ノ早旦ニ近江ト美濃ノ境ナル黒地河ニ著キニケリ。(略)前ニハ關ノ藤川ヲ隔テ後ニハ黒地川ヲアテゝ其際ニ陣ヲゾ取タリケル。

 

と書かれているので、いわゆる「背水の陣」。

 

 1338年、上洛を目指した奥州国司北畠顕家率いる南朝方と、北朝方(足利勢)が、ここで対峙しました。

 

 ところで、話が変わるのですが、上画像で後方に見えるのは、東海道本線。

 

 1898年12月1日付『官報』によれば、

 

黒血川及北谷川径間二十呎竝ニ妙應寺道径間十五呎ノ三哄橋石積又ハ煉瓦築造工事中ニシテ其五分通ヲ成工セリ

 

 柏原駅を経由する、関ケ原~近江長岡駅間の現行線が開業したのは、翌99年の10月19日です。

 

 

 次の画像は「間の宿山中」の標柱と「高札場跡」の案内板。

 

 かつて山中は間の宿であり、また、大田南畝『壬戌紀行』に、

 

今須の驛は御代官多羅尾四郎次郎の支配なるが自是東竹中主殿領分といへる榜示あり。松原をすぎて山中の村にいたる、

 

と書かれているように、竹中氏の知行地。

 案内板によれば、千束橋詰に高札場が設置されていたそうです。

 

 

 国道22号線を、東海自然歩道の歩道橋で渡り、側道に入ると、「從是西不破郡山中村地内」という標石と、真新しい「不破関跡・不破関所資料館580m」という道標がありました。

 

 

 上図は、1971年改測の2万5千図「関ヶ原」。

 

 関ヶ原は昔も今も、交通の要衝。

 

 狭い地峡を、東海道新幹線、国道22号、旧中山道、東海道新幹線、名神高速道路が通過していきます。

 

 

 さて、藤下の集落には「→大谷義隆墓七丁」の標石。

 

 秋里籬島『木曽路名所圖會』によれば、

 

 大谷刑部少輔義隆塚 山中村左の方の山下にあり。慶長亂後藤堂家これを建つる。

 

 関ヶ原宿に向かい、さらに坂を下っていくと、

 

 

「関の藤川(藤古川)」に出ました。

 

 同圖會によれば、

 

 關藤川 松尾村西にあり。水源伊吹山の麓より流れて、北國街道藤川の宿の東を行き、松尾村の西、不破の關の下を流れ、多良川と落ち會うて、栗笠より勢州桑名に入る。俗にこれを藤子川といふ、土橋かゝる。

 

 

 同図絵の挿圖「關藤川 不破古關」に描かれているように、橋を渡り、

 

 

東に坂を上っていくと、

 

 

不破関跡に出ました。

 同圖會によれば、

 

 不破關古蹟 松尾村の内、西の方、藤川東の岸上なり

 

 

 さらに中山道を東に歩いていくと、大きな「←福島正則陣跡」の道標と「美濃不破関 東山道と東城門跡」の案内板。

 

 

 国道22号線に出ると、

 

 

「関ヶ原の戦い 西首塚」が見えてきました。

 

 同圖會によれば、

 

 首塚 関ヶ原宿の西、往還の左にあり。又若宮八幡宮の傍ら、越前街道にもあり。慶長戦死の塚なり

 

慶長五年九月の「関ヶ原の戦い」の戦死者の首が、東西の二箇所に分けて埋められたようです。

 

 

 さて、国道22号線(中山道)を東に歩いて行くと、旧関ヶ原宿に入り、上画像は「関ヶ原宿脇本陣跡」。

 

 

 そして、関ヶ原駅に着きました。

 

 

 関ヶ原はやはり「古戦場のまち」で、

 

 

駅前には「関ヶ原古戦場史跡案内図」と、

 

 

 「歴史との出逢い 関ヶ原 東西との出逢い」の看板。

 左が徳川家康で、右が石田三成でした。

 

 

 さて、電車待ちの時間があったので、足を延ばして「東首塚」へ。

 

 

 大田南畝『壬戌紀行』によれば、

 

爰は慶長の年石田三成世をみたりし時ふたら山の神一たひ」怒りましまして、天か下おたやかにに治まりし

 

 石田三成が世を乱した時、二荒山の神が怒り、天下がおだやかに治まった、ということになるのですが、

 

 

果たして、東西の首塚には合わせて、どれほどの首が埋められることになったのでしょうか。

 

 

 ところで、私のこの日のお土産は、関ヶ原駅前観光交流館で買った「天下分け目の関ヶ原 大谷吉継 義の武将スナック」。

 

 義を貫く吉継がいっぱい入っているようです。