(前回「旧中山道:加納から新加納へ(後)」より続く)
新加納を出て、中山道を鵜沼宿に向かいます。
貞享二年の貝原益軒『岐蘇路の記』*に、
各務野ひろさ三里四方有と云。但東西は三里ばかり。南北一里半程に見ゆ。此野に田畠なし。たゞ青草のみ生ず。
享和二年の大田南畝『壬戌紀行』**に、
此あたりより鵜沼までの間を各務野といふ。三里四面ありといふ。
また、『木曽路名所圖會』(1805年)に、
各務野 新加納より東の方にあり。廣き野なり。此邊を三野の其一各務野といふ。北に各務村あり。野の廣さ三里四方あり。此野に田畑なし。只青草のみ生ず。
と書かれるように、新加納の東方は「各務野」・かつては田畑がなく、青草のみ生じる「広き野」でした。
地形的には「洪積台地」、さらに強い酸性土壌であり、開墾は再三にわたり試みられたものの、
長くて数年で引き揚げ、住みつく者はほとんどいなかった。
という状況***だったようです。
各務原市民公園は、岐阜高等農林学校(後に岐阜大学農学部)の跡地。
六軒は、当初の入植者が6軒だったことに由来し、また旧中山道の茶屋があった***ところ。
享和二年の大田南畝『壬戌紀行』**によれば、
六軒茶屋の村はわびしきさまなり一里塚をこえて左に芝山近く見ゆ、
当時は侘しい所だったのでしょうが、国道21号線に入ると、
左手に、川崎重工株式会社岐阜工場の大きな建物が見えてきました。
同社のウェブサイトより「沿革(航空宇宙事業)」を見ると、「各務原分工場開所」は1923年、「各務原工場を岐阜工場に改称」したのは1939年です。
陸橋の上から見えたのは、名鉄各務原線の三柿野駅。
各務原鐵道株式會社が、安良田補給部前間の運輸営業を開始したのは、1926年1月21日****。
稲葉郡蘇原村字北柿澤の「補給部前驛」が、「各務野驛」と改称したのは、同年7月7日*****。
途中省略になりますが、名岐鐵道が「各務補給部前停車場」を「航空廠前」と変更されたのは、1935年8月1日******。
上画像は、当日撮影した、航空自衛隊岐阜基地北門です。
さて、JR各務ヶ原駅前を通り、旧中山道である国道21号線をさらに東に歩き、鵜沼羽場町から再び旧道に入ります。
上画像は、鵜沼羽場町の衣裳塚古墳。
現地に立つ各務原市教育委員会の案内板によれば、直径52m高さ7mと、県下最大の円墳であるものの、前方後円墳の前方部が削平され後円部が残った、という可能性もあるようです。
さらに進むと「西の見附跡」。
右から、元禄十一戌寅年の「南無観世音菩薩」「三界萬霊」「馬頭観世音菩薩」。
「木曽川泥流堆積物」の案内板。
御岳山の泥流堆積物が木曽川沿いに約200km流れ下ったもののようです。
おそらくはこのあたりが各務原台地の東端。
大田南畝『壬戌紀行』に、
坂を下りて(略)板橋ある川をわたりて鵜沼の驛にいる
と書かれているように、坂を下ると、
「中山道鵜沼宿」との石標があり、鵜沼宿に入りました。
*『紀行文集』(博文館、1930年)
**『蜀山人全集』巻一(吉川弘文館、1907年)
***伊藤安男編著『地図で読む岐阜』(古今書院、1999年)
****『官報』1926年1月28日
*****『官報』1926年7月14日
******『電気年報 昭和11年版』(電気新報社、1936年)