(前回「旧中山道:加納宿から新加納へ(前)」より続く)
木曾路(中山道)は、蔵前で左折します。
細畑の一里塚からは1.7km、この日の目的地鵜沼宿までは13.2kmの道のりです。
境川に架かる高田橋を渡ると、上流方向に名鉄各務原線。
東海北陸自動車道の高架下を抜けると、濃川橋の西詰に、「中山道 間の宿 新加納」という石標が見えてきました。
江戸時代の道中記、例えば、等々力豊田家「伊勢参宮日記」*(天保六年)に、
新加納村
中食六十四文 梅村屋仁兵衛
と書かれているように、新加納は立場(間の宿)。
中食を摂れる茶屋がありました。
「貞享乙丑の歳、われ武城より西に巋らんとせしに」という貝原益軒『岐蘇路の記』**に、
新加納は加納の東一里半に有。小なる町有。
大田南畝『壬戌紀行』(1802年)***に、
新加納村にいたる、人家少なし、
秋里籬島『木曽路名所圖會』(1805年)にも、
新加納 加納のひがし一里半にあり。町少し有り。
と書かれているので、それほど大きな村ではなかったのでしょうが、
「右京道」「左木曽路」との道標にしたがって、左折すると、
「一里塚跡」があり、
「中山道間の宿 新加納のご案内」との案内板がありました。
東の鵜沼宿、西の加納宿の距離が約17kmと長いため立場と呼ばれる小休所が設けられ、休息をとった。(略)皇女和宮の降嫁の際には、新加納の梅村屋を休息所とされた。
大垣市『大垣市史』上巻(1930年)によれば、
同二十七日曉六ツ時、御發輿、警衛方前日に同じ。新加納宿にて御晝食、鵜沼宿手前にて尾州家警衛方人數と交代し、大垣人數は、往還脇の野へ退去、同夜加納宿に泊り、翌二十八日巋城せり。
和宮は文久元(1861)年10月27日、加納宿で出て、新加納で昼食をとったようです。
さて、上画像は新加納交差点手前に立つ標石「中山道 間の宿 新加納」。
『木曽路名所圖會』によれば、
各務野 新加納より東の方にあり。廣き野なり。此邊を三野の其一各務野といふ。北に各務村あり。野の廣さ三里四方あり。此野に田畑なし。只青草のみ生ず。
かつては、新加納の東の方は「各務野」と呼ばれる「広き野」でした。
*世田谷区教育委員会『伊勢道中記史料』(1984年)
**『帝國文庫 紀行文集』(博文館、1930年)
***『蜀山人全集』巻一(吉川弘文館、1907年)