(前回「中山道:赤坂宿から揖斐川へ」より続く)
鷲田橋で揖斐川を渡り、
旧中山道を、美江寺宿に向かいます。
犀川を渡ると、左手に1833(天保四)年の創建という千手観音堂があり、
「美江寺宿名所・遺跡図」。
「右 大垣赤坂ニ至ル」という道標の角を、逆に左折すると、
右手に「美江寺宿本跡跡」があり、
正面に美江神社が見えてきました。
ここはかつての枡形で、高札場。
美江神社の境内には、
高札場が復元されていました。
美江寺は、中山道55番目の宿場町。
一条兼良『藤川の記』*(文明五年)を読むと、
美江寺といふは、鏡島より五十丁ばかりを隔てたると云へり。本尊は十一面観音。斗帳などの中にもましまさず、うちあらはれて人に拝まれさせ給ふ。利生を蒙ふるもの多しとなん。(略)
たのもしな佛の人にみえ寺のとばりを垂れぬ誓おもへば
と「美江寺」が出てくるのですが、岡田文園『新撰美濃志』によれば、
「美江寺廃墟」は村内にあり。養老年中よりの古刹勅願の霊場なりしが、永碌年中廢寺となりて里の名のみに殘れり。
永禄年間に廃寺となったようです。
また、大田南畝の紀行文「壬戌紀行」**(享和二年)によれば、
美江寺驛は戸田家采女正殿の御預り所なり、一里塚をへて左右ともにみな畑なり、山遠くして見えず、松の並木をゆく事長し。
上画像は「美江寺一里塚跡」。
合渡の驛を過ぎ(略)やうやう加納の驛につく。
現在は「みな畑なり」や「松の並木をゆく事長し」というわけではないのでしょうが、私も大田南畝ににならって、河渡の驛を過ぎ、加納驛に向かって歩くことにしました。
*『續〃紀行文集』(博文館、1901年)
**『蜀山人全集』巻一(吉川弘文館、1907年)