上画像は「赤池一里塚址」。碑文には、

 

 四ツ家追分から下津 一宮 黒田を経て、岐阜に向かう岐阜街道の一里塚であった。この街道は十六夜日記 又源平盛衰記等にも出ている。

  昭和四十四年五月 

            稲沢ロータリークラブ建之

 

と書かれていました。

 

 下津、一宮、黒田は、近世の岐阜街道であるともに、中世の「海道」筋。

 

 例えば、下津~一宮間に位置する「赤池」は、鎌倉時代中期の成立とされる慈光寺本『承久記』*に、

 

 去程ニ、海道ノ先陣相模守ハ、橋下ノ宿ヲ立テ参河国矢作・八橋・垂見・江崎ヲ打過テ、尾張ノ熱田ノ宮ヘゾ参リ給フ。上差抜テ進セテ、其夜ハ赤池ノ宿ニゾ著給フ。明日、尾張ノ一ノ宮へ外ノ郷ニ打立テ、軍ノ手駄セラレケリ。

 

と登場します。

 承久の乱の際、「海道」の先陣をつとめた相模守北条時房は、熱田の宮に参り上差を奉納、その夜「赤池ノ宿」に着きました。

 

 

 さて、赤池から岐阜街道を南下し、下津(おりづ)の町に入ります。 

 

 鎌倉時代後期の僧無住(一圓)の説話集『沙石集』巻第二「薬師観音の利益に依って命全き事」**を見ると、

 

 尾張國山田の郡に、右馬允明長と云ふ俗有りけり。承久の亂の時、京方にて、弋瀬河のたゝかひに疵あまたかうぶりて(略)あゆみてゆかんとて本國に下るほどに、下津河水まさりて、かなはずしてやすらふ程に關東に下る武士見あひて、あやしみてからめとりぬ。

 

 杭瀬川の戦いで敗れ、負傷した京方の山田右馬允明長は、 「下津河」の水かさが増して渡河できず、関東(方)の武士に怪しまれ搦め取られた。

 

 「下津河」は当時、赤池と下津の間を流れていたようです***。 

 


 下津(おりづ)は、「折戸」「下戸」とも書かれ、例えば、鎌倉中期の紀行文、阿仏尼の『十六夜日記』****に

 

 廿日、尾張国、下戸の駅を出でて行く。避きぬ道なれば熱田の宮に詣りて、

 

 飛鳥井雅有の『春の深山路』(弘安三年)****に、

 

折戸といふ宿も過ぎぬれば、やうやう今宵の泊りも近くなりぬ。

 

 

 

 あるいは、鎌倉後期の成立される『源平盛衰記』*****に、

 

 行家、武く心は思へども、無勢にて防ぎかね、小熊の陣を落されて尾張の國折戸の宿に陣をとる。 

 

と登場します。

 


 時代が下がって永享四年(1432年)、室町将軍足利義教の富士遊覧に随行した僧堯孝の「覧富士記」****を見ると、

 

 下津の御泊り垂井より十里萱津など過ぎて、熱田の宮の神前に詣でて

 

 復路においても、

 

下津の御泊りにて、

 暮れにけり乗るてふ駒を引きとめて今や下津の宿を尋ねん

 

 同じく随行した飛鳥井雅世の「富士紀行」******にも、

 

十三日。尾張國おりつと申す所を。夜ふかく立ち侍るとて。

 

  夢路をもいそぎ來にける旅なれや月にかりねの夜をおりつまで

 

熱田の宮を過ぎ侍る程に

 

 下津は中世、「海道」(鎌倉街道)の「宿」でした。

 

 しかし、松田之利編『街道の日本史29 名古屋・岐阜と中山道』(吉川弘文館、2004年)によれば、

 

 新しく岐阜街道が開かれると鎌倉街道はさびれ、集落も岐阜街道沿いに移転して半農半商の細長い町並みを形成した。現在では人通りも商店も少なくなっているが、

 

 

 上画像は、下津片町の曹洞宗頓乗寺。

 

 寺伝によれば、貞和三年(1347)時宗の寺院として成立、寛永七年(1630)に曹洞宗寺院として再興され、享保二年(1717)、西片町の現在地に移転しました***。

 旧跡は、現在の下津住吉町、中世の東海道の西側ルートの北西と、推定されています***。 

 

 

 上画像は、同町でみかけた「大峰行者堂」。

 

 中をのぞいてみたら、役の行者像が安置されていました。

 

 

 その手前には、一等水準点。

 

 標高は5.9mです。

 

*『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店、1992年)

 

**『沙石集 上巻』(岩波文庫、1943年)

 

***鵜飼雅弘, 蔭山誠一, 鬼頭剛・鈴木正貴・松田訓「中世下津宿を考える」、『愛知県埋蔵文化財センター研究紀要』田第10号(2009年)

 

****『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』(小学館、1994年)

 

*****『校註:日本文學大系第16巻 源平盛衰記 下巻』於巻第二十七(國民図書、1926年)

 

******『校訂 續 紀行文集』(續帝國文庫、博文館、1909年)