先日、JR尾張一宮駅発で、岐阜街道を歩いてみました。
岐阜街道は、松田之利編『街道の日本史29 名古屋・岐阜と中山道』(吉川弘文館、2004年)によれば、
岐阜から加納・笠松・一宮をへて四ツ家追分に至る約26kmの道のり
一宮市『一宮市史 下巻』(1939年)の第八編第一章第二節第一項「岐阜街道と一宮宿」に、
平岩親吉尾張藩家老の時即ち慶長年間當地から岐阜への直通道路を開設せられ、岐阜街道の一驛となった。
と書かれているように、一宮は岐阜街道の宿駅でした。
駅前通りをしばらく歩き、まずは本町通りへ。
松田之利編前掲書によれば、本町通りは、尾張国一宮の真清田神社の鳥居前町であるとともに、近郷の物資の集散地。
享保十二年(1727)年に市を立てることが許可され、神社門前から今の本町通を中心に開かれた「三八市」は昭和に至るまで大変な賑わいを見せた。
ただ、戦災で真清田神社とともに焦土と化し、
かつての宿場の面影はまったくといっていいほどない
という状況です。
アーケードのある本町通商店街を抜けると、左手に地蔵寺。
一宮市『一宮市史 下巻』(1939年)第九編第二章第一節「眞言宗」をみると、
地蔵寺
寳部山龍華院地蔵寺といふ。本町通八丁目二十三番地𦾔東片端にあって、境内三千坪餘(略)新義眞言宗豊山派檀林本寺格である。
次いで同巻第八編第一章第二節第一項「岐阜街道と一宮宿」を見ると、
かくて尾張藩主の岐阜御成の節には必ず當地を通過するを常とし、光友・綱誠・吉通は佐分八右衛門の宅、継友は地蔵寺、宗春・宗勝・宗睦は神主家に休憩した。
尾張藩主第六代継友は岐阜御成の節、この地蔵寺で休憩したようです。
愛知県道64号一宮蟹江線を横断し、殿町で左折すると、「岐阜街道 一宮一里塚跡」。
左奥に見えているのは、名古屋地方裁判所一宮支部です。
また、一里塚跡の道をはさんで南西角には「真清田神社一の鳥居跡」。
この後、いったん愛知県道190号名古屋一宮線(旧国道22号線)に出るのですが、牛野通を横断したところで、
精文館書店の裏手、大神神社御旅所前の側道に入ります。
愛知県道513号線を横断した先、かつて『張州府志』(宝暦二年)の巻第十九中島郡の津梁に、
【參差橋】在妙興寺。乃當一宮道路也。其形爲名。
と書かれたように、その形から名と爲った「スヂカイ」橋が架かっていたのでしょうが、現在は廃道。
いったん県道513号線に戻り、多加木北交差点から、県道190号名古屋一宮線に入ります。
多加木交差点を左折、旧美濃街道に戻り、大江川(大江用水)左岸を歩いていくと、
正面に、名神高速道路が見えてきました。
松田之利編前掲書によれば、
名神高速道路をくぐって稲沢市に入り、
私も、同高速の高架橋をくぐり、稲沢市赤池町に入りました。 (次回に続く)