上図は大垣市『大垣市史 中巻』(1930年)より、「大垣赤坂両宿附助郷村々圖」(部分)。

 

 美濃路は、高橋で水門川を渡ると、すぐ左折。

 

 

 しばらくは、水門川左岸の風情ある道を歩くことになります。

 

 上画像は、高橋から見た住吉橋で、

 

 

その東詰には、住吉燈台。

 

 

 続けて上画像は、貝殻橋から見た虹の橋で、

 

 

貝殻橋の東詰には、「船町道標」。

 

 左 江戸道

 右 京みち

 

 

 

 現地に立つ大垣市教育委員会の案内板によれば、高さ約2mの円柱で、文政年間、大垣城下京口御門の南、美濃路沿いに建立されました

 

 さて、上図に話を戻すと、美濃路は京橋を渡った後、大垣城下の南から東へ、右左折を繰り返しながら、進んでいくことになるのですが、

 

 

 上画像は、柿羊羹で知られる老舗「槌谷」の俵町本店。

 

 

 続けては竹島町の大垣宿本陣跡。

 

 大垣市『大垣市史中巻』(1930年)第九編第三章「美濃路大垣宿」によれば、

 

 本陣、竹島町に在り。永禄の頃、沼波玄古秀實竹島町を開き。始めて本陣を創立すと傳へらる。

 

 

 現地に立つ案内板を見ると、

 

 以後本陣役は宝暦五年(1755年)には玉屋岡田藤兵衛が務め、天保十四年(1843年)に飯沼定九郎が問屋を兼ねて勤めた。

 

 ところで、福井藩主松平春嶽の「東海紀行」(1844年)、天保十五年五月八日の条には、

 

大垣に到る、戸田氏之城下なり、城は右の方にあり、此所の本陣岡田清三郎に館す。

 

 また、先ほどの『大垣市史 中巻』によれば、 

 

 かくて本陣は𦾔の如く経営し、飯沼定五郎より子武右右衛門に傳へ、以て明治に及べり(廃藩後は普通旅館を経営す)。明治十一年十月、明治天皇御巡幸の際には、陛下御駐輦の光榮を荷ひたりき。

 

と書かれているので、松平春嶽や明治天皇も、この本陣(旧本陣)で、駐泊したということになるでしょうか。

 

 

 

 上画像は、本陣跡に立つ「美濃路大垣宿散策マップ」。

 

 「大垣宿本陣」と「明治天皇行在所跡」を「現在地」と表示しています。  

 

 

 続けては、同じ竹島町の大垣宿問屋場跡。

 

 先ほどの『大垣市史』によれば、

 

 宿驛の事務並びに人馬繼立を司る所を問屋場と云ふ。

 

 大垣宿の事務や人馬継立を司っていたようです。

 

 さて、問屋場跡で左折し、

 

 

右左折すると、本町に「大垣宿脇本陣跡」。

 

 先述の大垣市『大垣市史 中巻』(1930年)第九編第三章によれば、

 

 脇本陣 本町大手北側にあり。

 

 また同巻の第一編第二章第一節本町を見ると、

 

高札場 東西三間五寸 南北一間三寸五分。建二間三寸五分

脇本陣 間口十二間二尺一寸

 

 

その「高札場跡」は、本町の北隅。

 

 かつては「札の辻」と呼ばれていたようです。

 

 

さらに北に進むと再び、水門川。

 

 

 そして大垣宿東総門(名古屋口問)跡に出ました。

 

 先ほどの『大垣市史 中巻』によれば、

 

 高札場ヨリ名古屋口總門まで五十四間一尺一寸。

 

 

 ここから美濃路は、墨俣宿に向かうことになるのですが、

私はここで撤収。

 

 大垣駅に戻ることにしました。

 

 

 上画像は、大垣駅の7番線に停車していた樽見鉄道。

 

 地元ケーブルテレビ局CCNetの全面広告車です。

 

 

 続けて上画像は1番線、回送待ちのJR東海道線313系電車。

 

 この日のお土産は、槌谷の柿羊羹になりました。