(前回「美濃路:揖斐川から墨俣へ」より続く)

 

 

 

 輪中堤を下りて、墨俣の町に入ります。

 

 エディオンの角を左折し、美濃路を西進すると、大垣西濃信用金庫の南東角に、津島神社秋葉神社が見えてきました。

 

 

 鳥居の右下に見える標柱の文字は、「文化財琉球使節通行記念燈籠」。

 

 

 寛政三年(1791)年1月、琉球使節が墨俣を通行した際、天王社の石灯籠の奉納行事に立ち会い、揮毫したとのこと*。

 

 常夜燈の竿を見ると、正面に「牛頭天王」で側面に「常夜燈」、そして裏面に、

 

 乾隆五十六年辛亥正月吉日

 琉球国儀衛正毛廷柱書

 

と彫られていました。

 

 琉球使節は1714年以降、12回、美濃路を通行しています*。

 

 

 続けては「美濃路墨俣宿脇本陣跡」

 

 脇本陣の建物は、濃尾地震の際に倒壊、

 

 

その後に再建されたものということですが、

 

 

かつての宿場町の面影を偲ばせる建物、「大垣市景観遺産」です。

 

 

 旧脇本陣の並びには、「岐島屋百貨店」。

 西半分はつし二階、ガラス窓も昔懐かしい雰囲気で、こちらも大垣市の「景観遺産」。

 

 

 そして、さらに東進していくと、本陣跡に出ました。

 

 松平春嶽『東海紀行』**(1844年)に、

 

 墨俣宿に到る。本陣沢井彦四郎に小休す。

 

と書かれているように、歴代の本陣は澤井彦四郎家。

 琉球使節も10回ほど、墨俣で小休しています*。

 

 

 墨俣は美濃路七宿の一つであるとともに、長良川の渡船場。

 

 岐阜県安八郡『安八郡紀要』(1913年)に、

 

墨俣町 長良川の西岸に在り美濃路の名驛往時は妓館酒楼檐を連ね頗る繁華を極めたりしも星移り物換り今は漸く其の俤を留めず

 

と書かれるように、美濃路の往時は繁華な駅。

 


 現地に立つ案内板によれば、享和二年で家数263軒人口1218人、この地域の経済・文化の中心地だったようです。 

 

 

 さて、1933年に架橋された、300m程下流の長良大橋を渡り始めると、西岸(右岸)に墨俣城(一夜城)と樋門。

 

 

 一方、東岸(左岸)遠くには、岐阜県庁と金華山が見えていました。

 その右奥に雪をつけているのは、御岳山でしょうか。 

 

 

 長良大橋を渡りきると岐阜市茶屋新田で、さらに木曽川の旧河道***とされる境川(上画像)を渡ると、羽島市小熊町西小熊。

 

 市境の「境川」は、かつては美濃尾張の国境を流れる川でした***。

 

 木曽川が河道を現在の流路に変えたのは天正14(1584)年、木曽川大洪水によるものだったようです***。

 

 

 さて、境川左岸の堤防(輪中堤)を歩いていくと、小熊町東小熊に「羽島市指定史跡 一里塚跡」。

 

 

 

 足近町坂井で輪中堤を下り、坂井の集落を抜けると、昭和30年代初頭に行われたという土地改良事業により、約800m美濃路が消えてしまいます。

 

 

 交通量の多い岐阜県道一号岐阜南濃線を渡ると、かつて元町と呼ばれた南宿の枝村に入り、

 

 

須賀駅が見えてきたところで、この日の行程は終了。

 

 名鉄竹鼻線に乗って、帰途に就きました。

 

*尾西市歴史民俗資料館特別展図録NO.70『特別展 美濃路をゆく琉球使節』(尾西市歴史民俗資料館、2004年)

 

**『福井県文書館研究紀要14』(2017.3)

 

***『輪中と治水』(岐阜県博物館友の会、1990年)