先日、大垣~須賀駅間の美濃路を歩いてみました。
この日の出発地は、JR東海道線大垣駅。
大垣は共同使用駅で、7番線には第3セタター樽見鉄道のハイモ295-315が入線していました。
大垣は美濃路七宿の一つであり、
戸田氏十万石の城下町。
戸田氏は、水門川を屈曲させ、外濠として利用していました*。
また、戸田氏は1653年、逆水樋門としての水門を建造、水門川という名称はこれに由来する*ようです。
さて、大垣宿を出て美濃路を、墨俣宿に向かいます。
伝馬町には、延享元年創業という老舗武内酒造。
なお、美濃路からはずれることになりますが、伝馬町交差点を左折し、大桑国道を100mほど北に進むと、史跡「江馬蘭学塾跡」(藤江町2)。
延享四年大垣に生まれた、大垣藩医「美濃蘭学の祖 江馬蘭斎」が開業し、蘭学塾「好蘭堂」を開いていたそうです。
ところで、藤江町は旧藤江村(1889年町村制施行の際に大垣町に)。
横幕孜「美濃路大垣宿」**によれば、「明治維新の際に壊され」たとのことですが、藤江村の東端には一里塚がありました。
さて、美濃路は、JAにしみの三城支店の角を左折、三塚から今宿、沢渡へと、旧三城村を進むことになります。
上画像は、『安八郡紀要』(岐阜県安八郡、1913年)の「三城村」より、「國道美濃路」。
村内を貫通する國道美濃路は老松を擁せられ古態を失はず風致極めて佳なり。
かつては松並木も残っていたのであり、
美濃名所の一つに數へられたる古の長橋の跡は小野にあり。
鎌倉街道「小野の長橋」跡を過ぎ、さらに美濃路を東進すると、
揖斐川の堤防に出ました。
現地に立つ案内板によれば、「常夜燈」は、航路標識、航行安全祈願、伊勢両宮へ献燈のため、嘉永七年(1854)に建立されたもの。
越前福井藩主松平春嶽の「東海紀行」(1844)***に、
駕にて行、佐渡川に到りぬ、戸田氏正采女正の領内にて、馳走船いつる、美々敷飾られたり、乗船す、水主ともに船歌うたふ、大垣に到る、戸田氏の城下なり。
と書かれているように、当時、この辺りにおける揖斐川の呼称は「佐渡川」。
佐渡(さわたり)の渡しは、佐渡村(現:大垣市東町)と対岸の西結村(現在の安八町西結)の間を渡船で結んでいました。
ところで、その佐渡常夜灯のすぐ脇にあるのが、二等三角点「沢渡村」、標高は12.55m。
安八郡澤渡村は、1889年町村制により発足し、1897年、今宿村などと合併し、三城村になりました。
さて、常夜灯や三角点のある旧堤防?から、高堤防に上がると、西に大きく伊吹山の眺望。
初代大垣藩主戸田氏鉄の孫にあたる戸田如水は、元禄二年の「如水日記」9月4日の条に、次のように書いています****。
頃日伊吹眺望といふ題にて
其まゝに月もたのまじ伊吹山 芭蕉
芭蕉は生涯に四度、大垣を訪れていて、元禄四年の十月には*****、
千川亭に遊て
折ヽに伊吹をみては冬ごもり
伊吹山に雪がつくと、冬を感じます。今年も濃尾平野で広く言われる「伊吹おろし」の時期になりました。
*伊藤安男「輪中の城下町から中核工業都市へ」、伊藤安男編『地図で読む岐阜ー飛山濃水の風土ー』(古今書院、1999年)
**日本地名研究所「第34回全国地名研究者大会」(2015年)
***『福井県文書館研究紀要14』(2017.3)
****『奥の細道むすびの地 おおがき芭蕉生誕360年祭特別展
芭蕉と美濃大垣の門人たち」(大垣市・大垣市教育委員 会、2004年)
*****『芭蕉俳句集』(岩波文庫、1970年)