(前回「旧東海道:掛川から袋井へ(後)」より続く)

 

 

 上画像は、新町の常夜燈。

 

 天保八年丁酉三月に建立されたものの、昭和の東南海地震で倒壊。

 2016年、袋井宿開設400年を記念し、再建されました*。

 

 袋井宿の開設は元和二年(1616)。

 

 十返舎一九『東海道中膝栗毛』三編下(1804年)**によれば、

 

程なく袋井の宿に入るに、両側の茶屋賑しく、往来の旅人おのおの酒のみ、食事などしてゐたりけるを弥次郎兵衛見て

 

こゝに來てゆきゝの腹やふくれけんされば布袋のふくろ井の茶屋

 

 街道筋の両側に茶屋が建ち並ぶ、賑やかな宿だったようです。

 

 

 上画像は、袋井宿東本陣公園。

 

 袋井宿には本陣が三軒あり、東本陣は田代家。

 

 天保15年(1844)の福井藩主松平春嶽の紀行文『東海紀行』***に、

 

六時に掛川を出立、尤駕也、間もなく、袋井の本陣田代次郎右衛門に小休す。

 

 また、静岡縣磐田郡教育會『静岡縣磐田郡誌』(静岡縣磐田郡、1921年)にも、

 

明治二年三月二十日、明治天皇 御東幸の砌、袋井宿元本陣田代八郎左衛門方にて御駐輦御晝食を聞食さる、

 

と書かれています。

 

 

 

 次は、袋井宿場公園。

 

『東海道宿村大概帳』(1843年)によれば、袋井宿は、東西5町15 間、家数195 軒で、その内本陣が3軒、旅籠は50軒ありました。

 

 

 旧遠江の他の宿場と比較すると小規模であり、東に掛川・西に浜松という大きな宿場に挟まれていますから、それらで泊った旅人が袋井で休憩なり昼食をとる、という位置関係だったでしょうか。

 

 明治天皇や松平春嶽もそうでしたが、例えば、備前岡山藩主池田綱政「丁未旅行記」も、

 

晝の宿は袋井の里にて物し侍る(略)晝のやどり午の下刻に出てゝ。みかの坂。見附。中泉なと過ぎて(略)其夕は濱松の里に泊りぬ。城主も旅宿へ訪らひ給ひて暮るまで物語りして歸りぬ。

 

どの本陣宿であったかはわかりませんが、袋井を「晝の宿」「晝のやどり」とし、濱松で宿泊。

 

 あるいは吉田松陰の「東遊日記」(嘉永四年)****も、

 

 四月朔日 晴。卯後、濱松を發す。舟にて天龍川を渡り、便道を取ること一里にして見付に抵る。大道に由れば則ち二里許りと云ふ。袋井に抵り餐を傳ふ。懸川に宿す

 

 朝、濱松を立ち、袋井で午餐、掛川で宿す、という行程です。

 

 ただ、袋井で泊まった旅人ももちろんいるわけで、例えば吉田松陰も「長崎紀行」(嘉永六年)****では、

 

 二十三日 晴。藤枝を發して、袋井に宿す。

 二十四日 晴。袋井を發して、荒井に宿す。

 

「袋井に泊」していました。

 

 

 続けては、「本町宿場公園」。 

 


高札場や「従是袋井宿」と記された棒鼻が復元され、また、御幸橋の整備に伴い橋の北側にあった秋葉灯籠も、この公園に移設*されています。

 棒鼻があるということは、ここが、袋井宿の西の入り口。

 大田南畝「改元紀行」*****によれば、

 袋井の宿を越へ、川合橋を渡りて

ということなので、私も宿場公園で休憩した後、橋を渡りて、次の川合村から木原村、旧東海道を西へ進むことにしました。
 

*『秋葉山常夜灯ー袋井の景観遺産探訪Ⅰー』(袋井市教育委員会、2016年)

 

**十返舎一九『東海道中膝栗毛(上)』(岩波文庫、1973年

 

***『福井県立文書館研究紀要』14(2017.3) 

 

****『吉田松陰全集』第10巻(岩波書店、1939年)

 

*****『蜀山人全集』巻一(吉川弘文館、1907年)