(前回「美濃路:起の渡し」より続く)
上画像は「史跡起宿本陣及び問屋場跡」「国学者加藤磯足邸趾」。
起宿本陣の当主は歴代、加藤右衛門七を襲名していて、第10代が敏光。
妻は脇本陣林浅右衛門定通の娘てる、その子が第11代磯足です*。
加藤磯足は、宣長門下の国学者であり、1793(寛政五)年4月の宣長「日記」**をみると、
○ 十二日 出京
○ 十三日 宿近江彦根松井正平宅、夜歌會
○ 十四日 宿美濃大垣大矢重門宅
○ 十五日 宿尾張起驛加藤礒足宅、夜歌會
宣長が加藤磯足宅に宿した夜、歌会が催されたようです。
時代が下がって、福井藩主松平春嶽の「東海紀行」(1844年)に***、次のような記述があります。
駕にて立ちて、起宿の本陣加藤右衛門七に小休し、歩して起川に臨む、大川也、源は木曽川とそ、尾州侯より馳走人出る、
当時の起宿の本陣当主は、第何代の誰だったでしょうか。
さて、「起宿本陣及び問屋場趾」から美濃路を数十m南進すると、国登録有形文化財の「旧林家住宅」があります。
林家は歴代、起宿の脇本陣と船庄屋を兼帯した家柄なのですが、建物は濃尾地震で崩壊。
大正期に再建された住宅を、1982年、当時の尾西市が購入、現在は一宮市歴史民俗資料館別館です。
さて、起宿を出て、美濃路を進むことにしましょう。
『尾張志』8中島郡の「宿驛」に、
起宿 絹屋起村より南東方富田村まで町屋引きつゝき問屋本陣等萩原稲葉と同しく賑へり江戸の方萩原より一里
と書かれているように、次の萩原宿までは一里の道のりで、
南東方の富田には、「左駒塚道 船渡五丁」という「慶応三 丁卯夏五月」の道標、
そして、「史跡 富田一里塚」があります。
現地に立つ、一宮市教育委員会の案内板によれば、美濃路には一里塚が13カ所設置されていたものの、
原形をとどめるのは、この富田一里塚のみのようです。
上図は、1932年第二回修正測図の五万分一地形図「津島」。
起町の南東に富田、次いで西萩原の集落があり、さらに南に「朝日村」や「明地」の文字が見えています。
1893年、当時の愛知県中島郡明地村で生まれ、1903年明地尋常小学校、1907年朝日尋常高等小学校を卒業。1908年萩原尋常小学校の准訓導になったのが、市川房枝****。
1906年5月、明地村は合併により朝日村、さらに1955年、朝日村は起町と合併し、尾西市に。
市川房枝は、1981年「尾西市名誉市民」、合併により現在は「一宮市名誉市民」です。
美濃路が日光川を渡る手前の一宮市明地には、昨年3月同市により、「市川房枝生誕地記念広場」が完成しました*****。
*尾西市歴史民俗資料館特別展図録NO.47『美濃路本人主・文人・国学者 加藤磯足展』(1997年)
**『本居宣長全集第16巻』(筑摩書房)
***『福井県文書館研究紀要14』(2017. 3)
****一宮市尾西歴史民俗資料館特別展図録NO.89「生誕120年記念特別展 市川房枝」(2013年)
*****「朝日新聞デジタル」2023年4月13日