(前回「美濃路稲葉宿」より続く

 

 

 稲葉宿本陣跡を出て、美濃路を清須に向かいます。

 

 深田増藏正韶撰・植松庄左衛門茂岳校『尾張志 八 中島郡』(1844年)によれば、

 

 稲葉驛 美濃路 東海道熱田驛より別れて名古屋を経て上京するをいふ の宿驛にて稲葉村より東の方小澤村まで町家連り問屋本陣旅宿等備はれり江戸の方清須宿より二里京の方萩原宿へ一里の馬繼なり

 

 清須宿までは約二里の道のりです。

 

 

 小沢一里塚跡から、

 

 

国府宮一ノ鳥居の前を通り、

 

 

上画像の道標で右折。

 

 

長束町から井之口に入り、

 

 

JR東海道線の踏切を渡ると、上画像の旧家が見えてきました。

 

 

ここがかつての「四ツ家追分」。

 

 松田之利編『街道の日本史29 名古屋・岐阜と中山道』(吉川弘文館、2004年)に、

 

 美濃路と岐阜街道の分岐点である四ツ家追分には休み茶屋があり、うどんが名物であった。

 

 先述の『尾張志』に、

 

 四ツ屋といふは起海道と岐阜海道とのちまたにて旅人の休茶屋数軒あり

 

と書かれているように、起宿を経て京都に向かう美濃路と、一宮を経て岐阜に向かう岐阜街道との分岐点。

 

 また、『尾張名所圖會 後編第一中島郡』によれば、

 

四ツ屋 井之口村と六角堂村の堺にあり起街道と一宮街道との岐

 

井之口村と六角堂村の堺に位置していました。

 

 ところで、この四ツ屋にあった道標は、六角堂村の

 

 

長光寺の門前に移設されていて、

 

 右ぎふ

 

 

 左京都道

 

 

 長光寺は、楼門が稲沢市の指定文化財で、

 

 

六角堂(地蔵堂・六角円堂)が、国の重要文化財。

 

 

 上画像は、『尾張名所圖會』後編巻一の挿圖「六角堂長光寺」。

 

 『尾張志 中島郡』によれば、

 

當村長光寺の地蔵堂六角なるゆゑ村名に呼へり是亦美濃街道の町屋也

 

この六角堂が村名の由来のようです。

 

 さて、長光寺の門前に戻り、美濃路を南進すると、

 

 

北市場美濃路公園。

 

 『尾張志 中島郡』によれば、

 

北市場村 郡のうち東南の隅なる里にて名古屋より酉戌の方二里半餘にあり美濃街道町屋長く農商交りすめり

 

 

 北市場村(現:稲沢市)が中島郡の東南隅で、美濃路を南進すると、春日井郡の清須(現:清須市)。

 

 『尾張名所圖會』後編巻三に、

 

 清須 當郡中西南のはてにて

 

と書かれているように、清須は春日井郡の西南のはてで、

 

 

枡形を曲がると、右手(西)に總見院があります。

 

 

 現地に立つ案内板「信長の菩提寺総見院」によれば、総見院は、清須町の北端にあり、

 

 

名古屋總見寺の旧地ということになるようです。

 

 

 

 上画像は、清須駅前にある「清須市観光案内図」。

 

 清洲駅の所在地は清須市ではなく、稲沢市です。

 

 

 この日はJR清洲駅から、東海道本線に乗って帰路につきました。