上画像は、名鉄尾西線の萩原駅。

 

 尾西鐵道森上~萩原間の開業は1899年7月18日*で、萩原~一宮間は1900年1月24日**。

 

 そして、1925年7月17日、同鐵道は、名古屋鐵道株式會社に譲渡されました***。

 

 

 ところで、この萩原駅は、美濃路萩原宿の最寄駅。

 

 西方向に歩いて十数分で萩原宿の上問屋場跡、さらに1時間ほどで次の起宿らしいのですが、そちらは次回のお楽しみとして、今回は、東の稲葉宿へ。

 

 以前歩いた美濃路、清須~金山間につなげようという計画です。

 

 

 上画像は、旧高木村(現:一宮市萩原町高木)の「一里塚址」。

 

 

 

 現地に立つ一宮市の案内板「高木一里塚跡」によれば、美濃路に設けられた十三カ所の一里塚の一つ。

 明治初年頃までは塚があり、榎も植えられていたようです。

 

 

 さて、高木集落から、

 

 

西御堂、石橋、木全を抜け、

 

 

旧稲葉宿に入ると。

 

 

 

古い町家が見られるようになってきました。

 

 

 『尾張名所圖會』後編(片野東四郎、1880年刊行)巻之二によれば、


 稲葉驛 美濃路 東海道熱田驛より北にわかれて上京する官道なり或ハ上街道とも云 の宿驛

 

であり、

 


 

東の方清須より西の方萩原宿への馬継なり町家長く連り公私の旅客常に絶る事なし 

 

 

 

 上画像は、稲沢市シルバー人材センターの前に立つ、稲沢市の案内板「美濃路案内」。

 

 天保14年(1843)の稲葉宿は、336軒中旅籠宿8軒、本陣・脇本陣が各1軒。宿場の長さは8町21間(約911m)だったようです。

 

 『尾張名所圖會』後編巻二にも引用されている、元政上人「身延道の記」****によれば、萬治二年の十月

 

 四日、名古屋をたつ、稲葉萩原などいふ處を過ぎて、大垣に至る、

 さとの名のいなばかりほす秋すぎてすゞめさびしき小田の朝霜

 をしかねし野べの萩はら霜がれてあだなる露のかたみだになし

 

 稲葉・萩原という地名が詠み込まれているのが、ポイントでしょうか。

 

*『官報』1899年7月24日

**『官報』1900年1月25日

***『官報』1925年7月22日

****「江戸文集」(国立国会図書館デジタルコレクション)より