上画像は、中宮寺境内にある秋艸道人の歌碑。

 

 みほとけのあごとひぢとにあまでらの

 あさのひかりのともしきろかも

 

 出典は彼の歌集『南京新唱』(春陽堂、1924年)p.72、詞書は「中宮寺にて」です。

 

 

 中宮寺は、『上宮聖徳法王帝説』(岩波文庫、2013年)に、

 

 太子七寺を起つ。四天皇寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺(彼の宮を并わせ川勝の秦公に賜う)、池後寺、葛木寺(葛木臣に賜う)なり。

 

と書かれる、太子ゆかりの寺。

 

 

 現在の本堂は鉄筋コンクリート造(RC造)、1968年の建築ですが、和辻哲郎『古寺巡禮』改訂版(1947年)*によれば、

 

 そこを出て中宮寺へ行く。寺というよりは庵室と言った方が似つかわしいような小ぢんまりとした建物で、また尼寺らしい優しい心持ちもどことなく感ぜられる。ちょうど本堂(と言っても離れ座敷のような感じのものであるが)の修繕中で、観音さまは廚子から出して庫裏の奥座敷に移坐させてあった。

 

ということなので、和辻が訪れた1918年当時は、こじんまりとした建物で、尼寺らしい優しい心持ち。

 本堂も離れ座敷のような感じのものだったようです。

 

 なお、同寺は17世紀初頭までに、法隆寺東院の北東に隣接する現在地に移った**とされ、旧地は約400m東の「史跡中宮寺跡」。

 

 

 中宮寺跡には、塔、金堂の基壇が土壇状の高まりとして残り、国の史跡。

 

 

 私が行った折には、コスモスが花盛りでした。

 

 

*岩波文庫、1979年

 

**斑鳩文化財センター「『令和2年度秋期特別展 聖徳太子の足跡』展示図録』(斑鳩町教育委員会、2020年)