上画像は、津島神社参宮道と、津島下街道・上街道が交わる橋詰町三叉路。

 

 この日は、津島神社に参拝した後、上街道を勝幡に向かいました。

 

 

 本町筋は、旧街道であるとともに、かつての津島のメインストリート。

 

 

 現在も古い町家が残り、往時を偲ばせます。

 

 

 上画像に見える看板は「足袋のツモヤ」。

 

 

 続けて、上画像は1929年建築で、国登録有形文化財の「旧津島信用金庫本店」。

 

 

 『尾張名所図会』(1844年)巻七が「津島里」について、 

 

尾西第一の大邑にして、縦横の町並五十餘街、商家農工軒を並べ、萬物一として足らざる事なく、(略)諸國の旅客爰につどひて、繁昌大方ならず、

 


と書いているように、かつては商家農工が軒を並べ、万物足らざる事のない、尾西第一の大邑だったのであり、 

 

 

また、清河八郎が安政二年の旅日記『西遊草』(岩波文庫)で、

 

 三里斗り歩みて津島にいたる。市中数千軒ありて、遠近にまれなる繁華の土地なり。

 

 

と書いているように、市中数千軒という、

 

 

遠近にまれなる繁華の土地だったのだろうと思います。

 

 

 さて、津島上街道は本町筋を抜けると、旧天王川左岸の「兼平堤」の上を歩くようになり、 

 

 

やがて、「是より西つしま」の道標、

 

 

根高の集落に入りました。

 

 『尾張名所圖會』巻七(1844年)によれば、

 

根高地蔵堂 根高村にあり。當國六地蔵の一所にして、殊に霊佛なり。

 

 

 続いて日光川を渡ると、『尾張名所圖會』巻七(1844年)に、

 

勝幡城址 勝幡村と城西村との間にありて、南北百二十間、東西百十四間なり。

 

 

と書かれる「勝幡城跡」で、

 

 

石碑の文字は、「織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」。

 

 また、『信長公記』の巻首を見ると、

 

 弾正忠と申は尾張國端勝幡ト云所に居城也。

 

 織田弾正忠家の居城だったようです。  

 

 

日光川に架かる嫁振橋の親柱には、勝幡城復元図。

 

 山科言継『言継卿記』の天文二年(1533)七月八日条に*、

 

 同三郎迎とて來、則彼館へ罷向、馬に乗、三郎不乗、跡に來候了、(略)則城之内新造に移候了、未徒移之所也。驚目候了。

 

と書かれている館は、この新造の城だったでしょうか。 

 

 

 城址から、10分ほど歩くと、

 

 

名鉄勝幡駅に着きました。

 

 

 北口駅舎の前には、

 

 

 「織田信秀と土田御前に抱かれた幼少期の信長」像がありました。

 

*『言継卿記』第一(国書刊行会、1914年)