(前回「法隆寺西院伽藍へ」より続く)
上画像は、法隆寺東大門。
西院伽藍の築地塀にあり、門を出ると、正面突き当りに東院伽藍があります。
東院伽藍は、僧行信によって、天平11(739)年、斑鳩宮跡に造営されたもの*
『日本書紀』巻第二十二。推古天皇九(601)年二月条に**、
九年の春二月に、皇太子、初めて宮室を斑鳩に興てたまふ。
同十三年十月条に**、
冬十月に、皇太子、斑鳩宮に居す。
そして、同二十九年二月条**に、
二十九年の春二月の己丑の朔癸巳に、半夜に厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨りましぬ。
とあるので、斑鳩宮は、皇太子(厩戸豊聡耳皇子命)が造営し、居し、薨去したところ。
しかし、皇極天皇二年十一月条**に、
十一月の丙子の朔に、蘇我臣入鹿、小徳巨勢徳太臣・大仁土師娑婆連を遣りて、山背大兄王等を斑鳩に掩はしむ。(略)。遣巨勢徳太臣等、斑鳩宮を焼く。
と書かれているので、643年、蘇我入鹿に襲われ、斑鳩宮は焼かれた。
また、推古天皇十四年紀**に、
是歳、皇太子、亦法華経を岡本宮に講く。天皇、大きに喜びて、播磨國の水田百町を皇太子に施りたまふ、因りて斑鳩寺に納れたまう。
と書かれている「斑鳩寺」は、皇極二年十一月条**に、
山背大兄王等、山より還りて、斑鳩寺に入ります。軍将等、即ち兵を以て寺を囲む。(略)。終に子弟・妃妾と一時に自ら経きて俱に死せましぬ。
とあるので、山背大兄王一族自害の地ということになります。
ところで、その斑鳩寺跡が「法隆寺若草伽藍跡」*。
『日本書紀』巻第二十七天智天皇八年紀***に、
時に、斑鳩寺に災けり。
また、翌九年四月条***に、
夏四月の癸卯の朔壬申に、夜半之後に、法隆寺に災けり。一屋も余ること無し。
とあるので、670年に全焼した、ということになるでしょうか。
さて、正面の四脚門をくぐり、東院伽藍に入ります。
正面に見えるのは、ご存知の方も多くいらっしゃると思うのですが、「夢殿」。
ご年配の方なら、表面が「聖徳太子」と「法隆寺夢殿」。裏面が「法隆寺西院伽藍全景」の、旧百円札を覚えてらっしゃるかもしれません。
八角堂という不思議な形、「夢殿」と呼ばれるようになったのは八世紀末からのことのようです***。
さて、今日最後は、その「東院伽藍」の裏手に建つ、秋艸道人(會津八一)の歌碑の画像をご覧下さい。
あめつちにわれひとりゐてたつごとき
このさびしさをきみはほゝえむ
法隆寺東院にて
秋艸道人
彼の歌集、秋草道人『南京新唱』(春陽堂、1924年)を見ると、「夢殿観音に」との詞書。
また、その「凡例」に、
夢殿の本尊を観音となし
とあるので、この歌は、夢殿の本尊「救世観音」を詠んだもの。
「自序」に、
われ奈良の風光と美術とを酷愛して、その間に徘徊することすでにいく度ぞ
と書いているように、彼は奈良の風光と美術を愛した人でした。
*斑鳩文化財センターの令和2年度秋季特別展「聖徳太子の足跡-斑鳩宮と斑鳩寺-』の展示図録(2020年)
**『日本書紀(四)』(岩波文庫、1995年)
***『日本書紀(五)』(岩波文庫、1995年)
****『週刊朝日百科 日本の国宝002 奈良/法隆寺2』(朝日新聞社、1997年)