上画像は豊橋鉄道株式会社「軌道開通50周年記念乗車券」(1974年)。
裏面を見ると、
モハ100形
大正14年7月14日の軌道開通にあわせて日本車両で新造された豊橋電気軌道1形で1~10号の10両ありました。
豊橋鉄道の前身は豊橋電気軌道株式会社で、大正13(1924)年3月17日の設立*。
『豐橋市市制施行二十年誌 昭和二年十一月』(豊橋市役所、1928年)によれば、
△市内電車 豊橋電氣軌道株式會社の経營にして(略)、十三年三月工事に着手し、仝十四年七月柳生橋線、並に驛前、東八町赤門間を開通し十二月東田本線全線開通せり。
市内電車の起点は、豊橋駅前で、
市内電氣鐡道は豐橋驛に起り新停車場通りを神明町に至り南北二線に岐れ、南して大手線を髙志村に達し、一は北進して大手線八町線を東田遊郭に達し以て市内の交通に便す。
「新停車場線」は、同書によれば、
縣道田原豊橋停車場線(新停車場線) 神明町豐明館より豐橋駅前に至るものにして、此延長三百七十八間、幅員六間餘を有す。
神明町にあった松竹キネマの映画を上映する「豐明館」の角を曲がると「大手線」。
さらに、市役所手前を東に折れ、八町線へ。
八町線 西八町の西端に起り、中八町東八町を経て東田遊郭に至るものにして、此の延長千九百十間、幅員平均四間五分を有す。
1945年6月の豊橋空襲で、市内線は全線不通になったもの、1950年には競輪場前、1960年には赤岩口まで延伸し**、現在の東田本線に。
同線は現在開業99年、来年7月には100周年を迎えることになります。 (次回に続く)
*『官報』1924年9月11日
**今井琢磨「豊橋鉄道」(『鉄道ピクトリアル』NO.461、1986年3月増刊号)