(前回「参宮道 松坂から櫛田川へ」より続く)

 

 

 上画像は、『伊勢参宮名所圖會』(1797年)の挿圖「櫛田川」。

 

 参宮道は左折し右折し、櫛田川の堤防を越え、

 

 

板橋で、対岸の早馬瀬に渡っています。

 

 芙蓉山人『伊勢参宮細見大全』(明和三年)でも、櫛田川は「板橋」なのですが、道中記*の中には、例えば、田中佐太郎「伊勢参宮日記」(天保拾二年)のように、

 

 一 拾弐文 櫛田川舟ちん

 一      宮川渡無ちん

 

あるいは、喜多見國三郎「伊勢参宮覚」(弘化二年)*のように、

 

 一 拾四文 くしだ川 舟わたし

 一 拾文  イセいなぎ 団子

 一 六文  はらい川 舟はたし

 一 九文  宮川 豆腐伝かく

  宮川舟ハたしふなちんいらず

 

と書いているものがあるので、櫛田川については舟賃をとり、舟渡しをした場合もあったのだろうと思います

 

 増水時だったのかもしれず、あるいは清河八郎が『西遊草』(安政二年)**で、

 

 壱里半して櫛田にいたる。川あり。舟渡しなり。渇川にて流れをとめ、往来を船にて渡し錢をむさぼる、にくむべきなり

 

と書いているように、流れを堰き止め、渡し銭を貪っていたのかもしれません。

 

 

 上画像は、現在の櫛田川左岸、豊原町側。

 

 

 

 堤防の上に出ると、170~180mほど上流に県道の櫛田橋で、

 

 

 橋から下流を見ると、近鉄山田線の橋梁が見えました。

 

 

 櫛田橋を渡り、早馬瀬の集落から大稲木の信号を抜けると、梵字?で、六字名号碑? 

 

 

 側面を見ると、「文化十四年丁丑十一月建立」と刻まれていました。

 

 

 300mほど東進すると、「祓川」。

 

 現在は櫛田川の分流なのですが、毎日新聞社津支局編・三重県史編さんグループ著『発見!三重の歴史』(新人物往来社、2006年)によれば、かつては櫛田川本流。

 

 飯野郡と多気郡との郡境だったのであり、現在もその川筋の多くが、松阪市と多気郡明和町の境界です。

 

 

 

 また、この祓川は、護岸工事があまりなされておらず、多くは自然堤防。

 河畔林が豊富で、県の自然環境保全地域に指定され、

 

 

斎宮跡や竹神社などとともに、日本遺産「斎宮」の構成文化財です。

 

 『伊勢参宮名所圖會』(1797年)によれば、

 

 多気川 一名稲木川又祓川 今の往来より北に古道あり。昔より勅使を爰に迎へ奉り、祓を修するの式あり。今は宮川にてその式行る、斎宮群行の時も前鎮の祓ありしなり。

 

 斎宮ゆかりの川のようです。

 

 

 

 さて、近鉄山田線を見ながら、旧参宮道を東に歩いていくと、

 

 

「従是外宮三里」の道標。

 

 

 

 左手側面には「宮川へ二里半」、

 

 

裏面には「弘化四年丁未」と彫られていました。

 

 

 さらに、近鉄山田線を見ながら、東に向かうと、

 

 

「伊勢街道」と「史跡 斎宮跡」の案内板。

 


 『伊勢参宮名所圖會』をみると、

 

 斎宮村 金剛坂のつゞき 舊名鳥墓村 昔斎宮ありし故に號く。土産菅笠を製す、斎宮笠といふ。

 


 

 上画像は、同圖會の挿圖「斎宮村」。

 

 「斎宮旧跡」との文字があり、祠と「斎王の森」が描かれています。

 

 

 続けて上画像は、街道筋にある「竹神社」。

 

 同図会によれば、

 

 〇往来の川の西を稲木村といふ。村中に八王子といふ社あり。これ所謂神名帳の竹の神社なり。

 

 ただし、中野泰志「竹神社」によれば、

 

 竹神社 多気郡明和町斎宮字牛葉

 

 当社は現在、櫛田川の古流といわれ斎王が禊を行った祓川の東約1.5kmの低台地上にある。(略)祭神は長白羽神ほか十二柱である。明治8年郷社に列せられ、翌年現社地から約1キロ北西の竹川字中垣内より竹川字東裏(現社地より約600m西)に移転、さらに明治40年以後に複雑な合祀がなされたあと、明治44年、現在地へと移った。

 

ということなので、現社地に移ったのは1911年。

 

 そして、榎村寛之『斎宮―伊勢斎王たちの生きた古代史』(中公新書、2017年)によると、現在の竹神社の社地は、斎宮跡のなかでも、斎王の住んだ「内院」と考えられているそうです。

 

*『伊勢道中記史料』(東京都世田谷区教育委員会、1984年)

 

**清河八郎『西遊草』(岩波文庫、1993年)

 

***『日本の神々― 神社と聖地 第6巻 伊勢・志摩・伊賀・紀伊』(白水社、1986年)