上画像は、「美濃苗木城図」*。
城郭の東から南を流れるのは、木曽川です。
拡大してみると、木曽川に面した断崖の上に「本丸」、その北北東と北西の2箇所に「二之丸」、さらにその北に「三之丸」との文字が見えます。
苗木藩は、遠山氏が12代、約260年間にわたり統治しました。
続けて上画像は、中津川市苗木遠山史料館。
復元模型を見てみると、岩山に築かれた城。
石垣の代わりに、自然の巨岩を利用したということになるでしょううか。
続けて、同館の2F「課題展示室」に入ると、同藩が行なった廃仏毀釈についての史料が展示されていました。
苗木藩は、安丸良夫『神々の明治維新-神仏分離と廃仏毀釈-』(岩波新書、1979年)に、
苗木藩は、美濃山間の小藩(一万石)であるが、きびしい廃仏毀釈を断行した藩として知られている。
と書かれるように、廃仏毀釈で知られる藩。
苗木藩は、藩主遠山友禄が、慶応三年まで幕府若年寄をつとめて江戸に在勤し、幕末維新期の去就に迷ったことや、莫大な藩債などのため、家中が混乱し、
展示資料によれば、14万両もの借財を抱えていたようです。
そこで明治2年、若干24歳の青山直道を登用し改革を推進させようということになったらしいのですが、彼は平田派の国学者。
翌3年には藩主の遠山友禄も平田国学に入門し、その年の8月、廃仏毀釈が始まりました。
苗木藩の廃仏毀釈は、領内の全寺院(十五か寺)を廃毀し、石像石碑にいたるまで仏教的なものを一掃し、全領民を神葬祭に改宗させる、というすさまじいものだった。
仏壇や仏像は焼かれたため、史料館には、この時に毀されたという、石仏や石碑が展示されていました。
さて、史料館を見学したのち、苗木城跡に向かうことにしました。
1871(明治四)年、多額の負債を抱えた苗木藩は、苗木城の天守・櫓・門・土蔵から槍・具足に至るまでを売却し、廃藩置県を迎えることになりました**。
そこで、史料館に展示されていた、風吹門の柱と門扉が、苗木城の唯一の遺構だそうで***、現在の城址に当時の建造物は何も残っていません。
上画像は、現在の風吹門跡です。
*国立国会図書館デジタルコレクション
**苗木遠山史料館のウェブページ「【資料紹介】苗木城の解体」
***パンフレット「苗木遠山史料館」
(次回に続く)