上画像は、渡邊公平・細井吉造・山下一夫共著の『南アルプス』(三省堂、1935年)。
今日は、同書を見ながら、当時の南アルプス北岳の登山コースを辿ってみたいと思います。
甲府驛に早朝着、芦安口に入って人夫の雇傭その他準備を整へ、晝飯をたべてゆっくり出かけても、夏の日の長い時なら、その日の宿舎五葉尾根小舎へはまだ充分明るいうちにつく。
当時の北岳登山口は、山梨県巨摩郡の芦安村でした。
上画像は、同書の附錄「南アルプス北部精密圖」(部分・縮小)。
当時、甲府からのバスの終点は御勅使川扇状地に位置する源村の有野集落(地図右上)、ハイヤーなら芦安村大曾利(地図中央)の坂の手前まで行けたようです。
大曾利には南アルプス案内組合があり、案内人を傭うことができました。
さて、大曾利で準備を整えたら、夜叉神峠から杖立峠に登り、野呂川の支流深澤の源頭に位置する「五葉尾根小舎」(地図左上)へ。
ここまでが一日目、芦安から杖立峠まで4時間、杖立峠から五葉尾根小舎まで1時間の行程でした。
翌日は大樺小舎まで頑張るつもりで少し早めに出かけた方がよい。小舎から野呂川に降る迄はグルグルと鳳凰山塊の西南面を捲いて行くので、この方面から野呂川に注ぐ澤を次々と横切る。
五葉尾根小舎から赤沢、タテイシ沢、カスケ沢を横切った先で、野呂川の河原に降ります。
河原へ出てから徒渉二回位で對岸に炊煙をあげてゐる廣河原小舎につく事が出来る。廣河原小舎は南アルプスの小舎のうちでも特に気持ちの良い場所である。
この「廣河原小舎」(地図左上)は、現在の広河原山荘の前身ということになるでしょうか。
ここから「大樺山荘」への登山道は、かつて信仰の道でした。
途中に白峯前宮の廃趾を見るが、この路は所謂北岳表参道で、昔、年一度の祭典には神官はこれを辿って北岳頂上の奥宮に参拝したもので一名神主道と呼ばれてゐる理由はこゝにある。
麓の芦安村には、北岳に対する山岳信仰がありました。
二時間半の苦闘で森林帯を抜け出ると急にパッと明るくなって一寸した平なところに出て、大樺小舎につく。
当時、白根御池(地図中央)には、「大樺小舎」がありました。
大樺小舎の前に赤黒い濁水を湛へた池がある。地圖記載の白峯御池で、昔北岳参拝の道者がこの池に白米を投げ込んでその浮沈に依って性の善悪を占ったと云ふ傳説を持つ甲斐國誌の瓢池はこれだ。(略)
『甲斐国志』(1814年)*は、「瓢池ト云アリ」「一説ニ大加牟婆池」、小島烏水「白根山脈縦断記」(1910年)**や鐵道省『日本アルプス案内』(1925年)は「大樺池」と書いています。
先づ絶好のキャムプ・サイトだ。大樺小舎から三時間半で北岳頂上につく。
上画像は、その「絶好のキャムプ・サイト」こと「白根御池」(2018年8月撮影)。
御池から北岳山頂まで、私の足で4時間の行程でした。
ところで、夜叉神峠から野呂川へはもう一本、鮎差に下るルートがありました。
芦安-(三時間)-夜叉神峠-(一時間)-鮎差-(一時間)-荒川小舎
同書によれば、この荒川口小舎は「眞中に爐を切った新しい型の小舎」であり、またこの小舎からのルートは当時、「白峯三山東面の新コース」でした。
こゝから三山に直登する渓谷、尾根は何れも最近登り出されたもので、通過したアルピニストの數も少く、人臭未だ至らず、白峯登高のコースに新分野を展開したものと云へる。
特に「北岳東山稜(池山釣尾根)」は、
北岳登攀の最短距離で、朝荒川口小舎を立てばその日のうちに北岳の頂上を極めて北岳小舎に宿泊が出来る。
その「北岳登攀の最短距離」のコースを、25年後に登ったのが、『日本百名山』(新潮社、1964年)の深田久弥。
私たちは、池山小屋を出発して、吊尾根と呼ばれる山稜を辿った。
彼の『わが愛する山々』(新潮文庫、1968年)によると、1960年の10月、終点の芦安でバスを下り、桃ノ木鉱泉のジープで夜叉神トンネルを抜け、鷲ノ住山の下で車を降りています。
谷川のふちまでおりると、荒川小屋がある。そこで遅い昼飯を食った。(略)ところが、驚いたことには、そこには飯場の一部落が出来、トラックが往復し、機械音のひびく工事場になっていた。
1960年になると、野呂川林道が荒川口まで延びてきていたということがわかります。
夜叉神トンネルが竣工したのは1955年、野呂川林道の完成は1962年10月***です。
深田久弥は『日本百名山』で次のように書いています。
近年芦安から夜叉神峠をトンネルで抜けて野呂川の広河原まで車道が完成し、奥深い山でえあった北岳も簡単に登られるようになった。
簡単に登れるルートがあるのなら、それを使いたくなるのが人情というもの。
私の北岳登山は4度とも、広河原まで、バス利用です。
*小島烏水『山岳紀行文集 日本アルプス』(岩波文庫、1992年)
**『甲斐叢書第十巻 甲斐國志上』(甲斐叢書刊行會、1935年)
***山梨県のウェブページ「山梨県の歴史(昭和34年(1959)~44年(1969))」より