上画像は、「泉野村 立木寫眞場發行」の絵葉書「八ヶ岳 横岳ノ南端ヨリ赤嶽ヲ望ム」。

 発行年はわかりませんが、表面に「きがは便郵」と右書きがあることから戦前、かつ1933年以降ということになろうかと思います。

 

 また、右下に「八ヶ嶽 峰主 赤岳 頂上」との赤スタンプがあり、

 

 

 

 表面にも、上画像の青スタンプがありました。

 

 また、この絵葉書を発行しているのは、泉野村(現在の茅野市)の写真場。

 1920年代に入ると、中央東線茅野駅からの登山ルートも開けつつありました。

 

 戦前における赤岳登山の拠点は本澤温泉なのですが、河田楨『一日二日山の旅』(1923年)が紹介しているのは、佐久鐡道小海驛ではなく、中央東線茅野駅から夏澤温泉を経由しての本澤温泉泊。

 「夏澤温泉」については、

 

 宿は数年前新に設けられたもので、

 

と書いています。

 

 続けて、信濃山岳會編『日本アルプス登山要項 大正13年度』(1924年)によると、「美濃戸口」の「赤岳温泉は本年開業」で、

 

 硫黄岳及び赤岳への新登山路あり

 

 さらに、鐡道省運輸局『山へ』(1930年)は、本澤温泉を「八ヶ嶽登山の好い根據地である」としながらも、「中央線口」として、

 

 中央本線茅野驛から俎原を横切って赤嶽鑛泉から赤嶽まで約三粁である。

 この外茅野驛から澁、唐澤温泉まで一七粁七自動車があり、澁ノ湯から天狗嶽を経て夏澤峠に出て登る。

 

というルートを紹介しています。

 澁ノ湯には当時既に、乗合自動車の便があったようです。

 

 最後に、森山汀川の歌集『峠路』(古今書院、1932年)を見ていたら、

 

  赤嶽登山 大正十五年七月

 

 わがために 赤嶽山に 米運ぶ 馬とこそ聞け 追ひこしにけり

 

という記述を見つけました。こちらで米を運んでいるのは自動車ではなく「馬」。

 

  憶赤彦先生

 

 赤嶽の 奥所に沸かす 温泉にありて 蟲にも鳥にも かなしまれけり

 

 森山汀川は、地元諏訪郡の小学教師で、赤彦門下の歌人。

 1903(明治36)年赤岳に登り、この年(大正15年)の3月に亡くなった師を憶っての一首ということになるでしょうか。

 

  「赤嶽の 奥所に沸かす」とありますから、冷泉で沸かし湯の赤嶽鉱泉で詠んだ歌かもしれないと、思っているのですが、どうなのでしょうか。