(前回より続く)

 旧中山道太田宿を、「下町」「中町」と歩いて、次は「上町」。

 

 上町には、臨済宗妙心寺派の禅寺「祐泉寺」があります。

 

 

 祐泉寺の特徴は、歌碑や句碑、名号碑や墓碑といった石碑が立ち並んでいること。

 

 

 まずは歌碑なのですが、右が坪内逍遥、左は北原白秋です。

 

  逍遥は、1859(安政六)年、太田宿にあった尾張藩代官所で生まれたという、美濃加茂ゆかりの人物。父親は同代官所の手代だったそうです。

 

 達筆すぎて、私には歌碑の字が読めなかったのですが、立札によれば、

 

 やま椿 さけるを見れは いにしへを 幼きときを 神の代をおもふ
 この木の実 ふりにし事し しのばれて 山椿はな いとなつかしも

 

と読むようです。

 左の歌碑の北原白秋は、福岡県柳川出身ですから美濃太田ゆかりの人物ではないのでしょうが、美濃太田を訪れたことが少なくとも二回はあるように思います。

 

 一度目は1927年8月。紀行文「木曽川」*に、

 

 太田の宿にはいる。右へ折れて鉄橋を渡れば、対岸の今渡から土田へ行けるのだが、それがライン遊園地への最も近い順路であるのだが、私は真直にぐんぐん駛らせる。

 

とあるので、太田の宿はおそらくは通過したのみ。

 それに対して、二度目は、吉植庄亮の『歌集 風景』(天理時報社、1943年)に、

 

 昭和七年十月、北原白秋君と濱名湖、木曽川、飛騨山奥に遊ぶ

 

とある、1932年10月の旅。

 同歌集に「美濃太田 望川楼即事」と題された吉植の歌が二首あるので、同行している白秋も美濃太田を訪れているはず。

 その折に詠まれたものではないかと想像しているのですが、どうなのでしょうか。

 こちらも達筆過ぎるのですが、

 

 細葉樫 秋雨ふれり うち見やる 石燈籠の あを苔のいろ

 

と読むようです。

 

 続けては句碑。

 

 

 春なれや 名もなき山の 朝かすみ

 

 という芭蕉の句碑です。 

 

 『芭蕉俳句集』(岩波文庫)を見ると、1685年の句で、「南良(なら)ごえ」。

 

 また、「野ざらし紀行」**には、「奈良に出る道のほど」として、

 

 春なれや 名もなき山の 薄霞

 

です。

 したがって、彼の郷里伊賀から奈良に出る山道の途中で詠まれた句ということになるのだろうと思います。

 

(次回に続く)

 

*『日本八景 八大家執筆』(平凡社ライブラリー、2005年)

 

**『芭蕉紀行文集』(岩波文庫、1971年)