上画像は、太田宿中山道会館。かつて美濃太田は、旧中山道の宿駅でした。

 

 同会館の駐車場に車を入れ、「お休み処やどりぎ」で昼食を食べた後、かつての宿場町を少し歩いてみました。

 

 

 上図は、1911年測図の五万分一地形図「太田」

 

 坂祝村から木曾川沿いに来た中山道が、枡形で太田町に入るのですが、この辺りが「下町」。太田宿は東から上町、中町、下町に分かれていました。

 

 下画像は、下町にあった道標。

 

 

 名古屋市塩町四丁目の「伊藤萬蔵」と刻まれています。

 

 彼の建立した道標は、この日二つ目。

 一つ目、神明堂にあった中山道と飛騨街道の分岐点の道標については、7月30日付けのブログ「起点 飛騨街道展」をご覧ください。

 

 話を元に戻して、次に、側面を見ると、

 

 

 「右 関上有知」・「左 西京伊勢」とあります。

 左正面に進むのが、西の伊勢や京に進む中山道。それに対してここを右折するのが、関や上有知(こうずち、現在の美濃市)に進む関街道です。

 

 さて、次は、旧太田宿の中心部にあたる「中町」。ここには本陣や脇本陣がありました。

 

 

 上画像は、1861年、皇女和宮が江戸の将軍徳川家茂に嫁ぐため、中山道を通った際に、新築されたという、「旧太田宿本陣門」。

 美濃加茂市指定の有形文化財だそうです。

 

 続く画像は、「旧太田宿脇本陣林家住宅」。

 

 

 こちらは主屋も残り、1971年、国の重要文化財に指定されました。切妻の両端に、立派な「うだつ」が上がっています。

 

 ところで、林家と言えば忘れられないのが、槍ヶ岳開山で知られる播隆上人。

 

 当時の林家の当主市左衛門が熱心な播隆の支援者であり、彼は1840年、この林家において亡くなりました*。

 

 墓は、「東町」の祐泉寺にあります(次回に続く)。

 

*美濃加茂市教育委員会文化課『美濃加茂ふるさとファイルNo.7 播隆』(1998年)