(前回より続く)

 

 

 

 上図は、1891年測図の五万分一地形図「御在所山」。

 

 三等三角点標高953.8mの点名は、「千草越」です。

 

 「千草越」というのは三角点の南の鞍部で、この地形図では「千種越」、現在の国土地理院の地形図には「根の平峠」と書かれています。

 

 

 上画像は、現在の「根の平峠」。

 

 三重県側の麓の集落「千草(千種)」と、滋賀県側の甲津畑とを結ぶ、歴史ある道です。

 

 例えば、『言繼卿記』廿一*で、弘治二(1556)年九月を見ると、

 

 たうけ越し過四里、根しろと云在所へ戌刻着了、人夫此所迄來了(略)此所に一宿了、

 十五日、辛未、天晴 ○今日根代にて人夫雇之、大概女也、北伊勢千草迄四十八町之三里、罷向

 

とあり、山科言継が、伊勢国の千草へ峠越えをしていることがわかります。

 

 なお、彼が一泊したという「根代」については、よくわかりません。

 今谷明『戦国時代の貴族』(講談社学術文庫、2002年)も、

 

 根代=所在未詳〔現三重県三重郡菰野町カ〕

 

 と書いています。

 

 それから十三年後の永禄十二(1569)年には、織田信長が、この峠を越えています。

 

 『信長公記』**の巻二に、

 

 千草峠打越し直に御上洛。九日に千草迄御出。山中大雪に候キ

 

 巻三の元亀元年(1570)年にも、

 

 香津畑の菅六左衛門馳走申し、千草越にて御下りなされ候。

 

と登場します。

 有名なのは、この時、杉谷善住坊が織田信長を狙撃したこと。

 

 杉谷善住坊と申す者、佐々木左京大夫承禎に憑まれ、千草山中道筋に鉄炮を相構へ、情なく十二・三日隔て信長公を差付、二ツ玉にて打ち申候

 

 ただし、狙撃は失敗。

 

 御身に少づゝ打ちかすり、鰐口、御遁れ候て、目出度五月廿一日濃州岐阜御帰陣。

 

ということで、信長は岐阜に帰陣しています。

 

 

 上画像は、三重県(伊勢)側の「旧千種街道登山口」。

 

 左に見えている沢は「伊勢谷」で、朝明川の源流であり、これをさらに下ると旧「千草村」。

 

 1889年に合併し「千種村」、1955年さらに合併し「朝明村」、そして1957年に菰野町に編入されました。

 

 朝明渓谷は、「朝明砂防学習ゾーン」があるぐらいで、砂防工事がかなり進んでいて、根の平峠からの「伊勢谷」も、いくつもの堰堤を越えなければいけません。

 

 同じ、鈴鹿山系菰野町の峠道でも、昨年登った八風峠と違って、歴史を感じさせるものが何も残っていないのは残念。

 しかし、うららかな春の一日、いい運動にはなったかな、と満足し帰宅しました。

 

 

*國書刊行会編纂『言継卿記 第三』(続群書類従完成会、1998年)

 

**『信長公記』(角川文庫、1969年)