(前回より続く)
上図は『伊勢参宮名所図会』(1797年)*の挿画「一身田高田山専修寺 其二」。
右上が本堂にあたる「如来堂」、右中央が「山門」で、「山門」の正面には子院に当たる智慧光院と玉保院が、東西に向かい合っています。
そして、画像の左下、「山門」から、その二つの子院の間を進むと、「釘貫門」と「石橋」が描かれています。
石橋の東側は失われたようですが、西側と釘貫門は現存します(上画像)。
津市教育委員会の冊子『一身田寺内町』(2009年)によると、寺内(寺領)と地下(町家)を分けるためのものであり、釘貫門は1752年・石橋は1760年の建築だそうです。
また、その冊子によれば、この石橋の南に続く一角は、「向拝前」(ごはいまえ)。
お寺に向かって門前で拝すると意味で、かつては、旅籠や店が立ち並んでいたようです。
上図は、1937年第二回修正測図之縮図の五万分一地形図「津東部」。
専修寺の境内のすぐ南を走るのが寺町通りで、その一本南は「仲の町」。
ということで、向拝前を左折し、仲の町に入ってみました。
地図を見ると、かつてはこの通りに郵便局があったようです。
この一身田郵便局長を長年勤められたのが、後の龍谷大学教授、故平松令三先生(1919~2013)。吉川弘文館の歴史文化ライブラリー『親鸞 』(1998年)など、真宗史研究で知られた方でした*。
さて、その仲の町を東に進むと、突き当りの三差路に大きな道標がありました(上画像)。
「天保八年酉九月」に建てられたもので、「右 江戸みち」。
また、画像では隠れていますが、裏面には「左 御堂幷京道」「右 さんぐうみち」とと刻まれています。
ということで、ここを右折し、「さんぐうみち」に向かってみることにしました。
すぐ先に、毛無川が流れていて、常盤橋があります(上画像)。
これは、かつて一身田が専修寺の寺内町だったころの環濠。
環濠には門が三ケ所あり、そのうちの一つが常盤橋手前の「黒門」だったそうです。
その黒門跡から常盤橋を渡った先の集落は、左上図にも見られる「橋向」。
津市教育委員会「一身田寺内町」(2009年)に、次のように書かれています。
ここは伊勢方面への出入口であり、ここより南の橋向は、門前町に匹敵するような地域で、芝居小屋や水茶屋などが立ち並び、昭和三十年頃まで大変賑わいました。
そして、ここはかつての歓楽街でもありました。
この界隈は、寺内町に接したかつての歓楽街で、風情を感じさせる連子格子や妻入り二階建ての建物が道沿いに数軒残っています。
曲亭(滝沢)馬琴の紀行文『壬戌羇旅漫錄』(1803年)*の巻の下、百二十八「古市の総評」に、
伊勢の妓樓しかるべきもの、第一古市、第二松坂、第三一身田、第四四日市、第五津、第六神戸、第七桑名なり。
また、百二十九「古市芝居の噂 附一身田及堤世古の噂」にも、
一身田も至極繁昌なる地にて、こゝにも芝居あり。八月初旬大坂より片岡仁左衛門など下りて、芝居ありといへり。
とありますから、伊勢の古市ほどではないものの、津や四日市、桑名よりも繁昌していたのかもしれません。