杉野兵曹長顕彰碑

 

 上画像は、近鉄磯山駅北の線路脇にある「杉野兵曹長顕彰碑」。

 

 ここにはかつて、杉野兵曹長の「銅像」がありました。

 

五万図津東部より磯山

 

 

 上図は、1937年第二回修正測図之縮図の五万分一地形図「津東部」。

 

 

 南北に走るのは、参宮急行電鐡伊勢線です。

 

 

 伊勢鉄道(後に伊勢電気鉄道)として開業しましたが、1936年、吸収合併されました*。

 

 そして、その参急磯山駅北の線路脇に「杉野兵曹長像」との文字が見えます。


 杉野兵曹長は、文部省『尋常小學國語讀本 巻八』(1933年)**の「第二十四 廣瀬中佐」に、

 

 とゞろく砲音、飛来る弾丸

 

 荒波洗ふデッキの上に、

 やみをつらぬく中佐の叫。

 「杉野はいづこ、杉野は居ずや。」(以下略)

 

 文部省『初等科國語 第四』(1942年)**の「十七 廣瀬中佐」にも、

 

 とどろくつつ音、

 飛び来る弾丸。

 荒波あらふ

 デッキの上に、

  やみを貫ぬく 中佐の叫び

  「杉野はいづこ、杉野はゐずや。」(以下略)

 

と登場する人物。

  

 戦前から戦中にかけての教育を受けられた方は、ご記憶をお持ちかもしれません。

 「廣瀬中佐」は、1910(明治43年)に使用が始まった「第二期国定教科書」で登場した教材だったそうです***。

 

 では、この詩は、どのような趣旨の教材であり、どのような場面を語ったものであったのか。

 

 

 文部省編『初等科國語 教師用 第四』(1942年)**は、「十七 廣瀬中佐」の「教材の趣旨」で、次のように書いています。

 

 

 教材は廣瀬中佐の最後を語る場面を詩によって躍如たらしめたものであり、これによって児童の感激を深からしめ、國民精神を振起し、非常時局に於ける奉公の赤誠を致す自覺に培はうとするものである。

 

 

 さらに、同書は、「廣瀬中佐の最後を語る場面」として、「東郷連合艦隊司令長官の報告」の一節を、

 

 

 軍人の亀鑑であったことを讃え、軍神として尊崇されるゆゑんを明らかにしてゐる。 

 

として、次のように引用しています。

 

 

 戦死者中福井丸ノ廣瀬中佐及杉野兵曹長ノ最後ハ頗ル壮烈ニシテ同船ノ投錨セントスルヤ杉野兵曹長ハ爆發藥ニ點火スベク船艙ニ下リシ時敵ノ魚形水雷命中シタルヲ以テ遂ニ戦死セルモノノ如ク廣瀬中佐ノ乗員ヲ端舟ニ乗移ラシメ杉野兵曹長ノ見當ラサルタメ自ラ三タヒ船内ヲ捜索シタルモ船體次第ニ沈没(以下略)


 従って、上記の詩は、船体が次第に沈没し端舟に乗り移る際、部下の杉野兵曹長が見当たらないため、三度にわたって船内を捜索した、という場面が語られているということになろうかと思います。

 

 廣瀬中佐は、軍人の亀鑑であり、軍神として尊崇されることになりました。

 

 

 井上民生「神になった英雄・義民たち」****によると、

 

 

 広瀬武夫中佐も日露戦争で名をあげた軍人だった。彼は旅順港の湾口の閉鎖を指揮し、壮烈な戦死を遂げたが、のち、「軍神」として、故郷の大分県竹田市に祀られている。広瀬神社である。

 

 廣瀬神社が創建されたのは、1935年のことだそうです。

  
杉野兵曹長銅像
 

 一方、部下の杉野兵曹長については、彼の郷里三重県河芸郡栄村に、銅像がつくられました。

 

 上画像は、「三重縣河藝郡栄村遺蹟保存會」の絵葉書「故杉野兵曹長銅像除幕式記念 杉野孫七像」。

 

 

 発行年は不明ですが、表面に「郵便はかき」とあり、また記載が二分の一であることから、1918-36年の間*****ということになろうかと思います。 

 

 

*藤井信夫「近鉄名古屋線が形成されるまで」、『関西の鉄道』NO.40(2000年)、三木理史「近畿日本鉄道の形成-戦前の合併と戦後の統一-」、『鉄道ピクトリアル』NO.727(2003年)

 

**国立国会図書館近代デジタルライブラリー

 

***海後宗臣・仲新・寺崎昌男『教科書でみる近現代日本の教育』(東京書籍、1999年)

 

 

****『歴史読本』2007年2月号

 

 

*****「絵葉書資料館」のウェブページ「絵葉書の年代鑑定法