1855(安政2)年4月21日、橋場で泊まった清河八郎一行は、中山道を中津川に向かっています。
橋場から馬籠に至るには馬籠峠を越さなければなりません。
上画像は馬籠峠頂上。標高は801mです。
少し歩みて信濃・美濃の堺あり。
馬籠の先の新茶屋が、当時は、信濃と美濃の国境でした。
なお、2005年、馬籠を含む長野県木曽郡山口村は、岐阜県中津川市に吸収合併され、現在の長野・岐阜の県境は、馬籠峠です。
最早上方に趣、人気も余程柔佞の風あり。地境もひろびろとして見はらしよし。
馬籠峠を抜け、馬籠あたりまで来ると、確かに見晴しがよくなります。
馬籠については、島崎藤村の『夜明け前』に、
山の中とは言いながら、広い空は恵那山のふもとの方にひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。なんとなく西の空気も通って来るようなところだ。
という叙述があります。
清河八郎の言う「上方」はともかくとして、西の美濃の空気が通って来るところではあったようです。
話を、『西遊草』に戻します。
壱里にて落合の駅を越、また壱里にて中津川の駅にて午食をなす。中仙道の事ゆへ、何れの駅々も綺麗なれども、就中此宿はにぎわしき也。「豪家も多し」と馬方はなされき。
伊那谷における物資の集散地が飯田であったとするなら、木曽谷のそれは中津川ということになるでしょうか。
中津川の中心部にあたる本町には、間家や肥田家といった豪家が軒を連ねていました。
すべて当年は東海道破損のいまだ全からぬ事ゆへ、大名、小名にかぎらず往来多くして、山坂多しといへども、さらに労を覚へず。且馬、駕籠多くすすめ来り、茶やは軒をならべ、食物の不自由とては鮮魚のたらぬのみにて、さらに東海道に違ふ事なし。
彼が中山道を旅した1855年の前年は、安政の東海地震と南海地震が連動して起こっていますから、東海道筋もかなりの被害が出ました。
それを避けて、中山道の往来する大名や旅人も多かったようです。
木曾路とて必らず恐るまじき往還なり。

