柳田国男は、『一つ目小僧その他』(1934年)*所収の「多度の竜神」の中で、
伊勢桑名郡多度山の権現様、近世江戸人の多くの著述に一目連と記すところの神は、雨を賜う霊徳今なお最も顕著であって、まさしく御目一箇なるがゆえに、この名ありと信ぜられている。
と書いています。
多度山の神は、柳田国男に従えば、「近世江戸人の多くの著述に一目連と記すところの神」。
例えば、松浦静山の『甲子夜話』巻二十二**に、
『雑談集』曰。勢州桑名に一目連と云山あり〔是山の竜片眼の由。依て一目竜と謂べきを、土俗一目連と呼び来れり〕。
建部綾足の『折々草』***秋の部に、
一目龍とたゝへ奉る神なむ、此御山の主にておはするよし。
滝沢馬琴(曲亭馬琴)の「羇旅漫録」****の〔百卅九〕にも、
一目連 桑名より三里ばかり西北に多度といふ所あり。多度大神宮たゝせたまふ。相殿に一目連といふ神おはします
などと、登場します。
ここで相殿とは、一つの社に二柱以上の神を祭る事。
左画像は、 『東海道名所図会』(1797年)*****の挿画「多度山」(部分)。
左上に「本社」、その右に「一目連社」がありますから、18世紀末には、相殿ではなく、別宮になっていたということになります。
また、同図会は、本文で、
ある記にいわく、式内多度神社というは、この天目一箇のやしろをいうなり。後に本社天津彦根命を祭る。すなわち親神なるゆえ、新宮本社となりて、一目連は摂社になりたまうという。可否詳らかならず。
と書いていますが、天目一箇命と一目連は、どういう関係なのでしょうか。「可否詳らかならず」ということで、話を一目連に戻したいと思います。
この一目連は、『東海道名所図会』に
神幸ある時は、山河鳴動して、雷電す。
『甲子夜話』に、
此山より雲出る時は必暴風迅雨す。
と書かれるような荒ぶる神。「甲子夜話」によれば、
先年此山の片目竜をこり、尾州熱田の民家数百軒を、大石を以て累卵を圧がごとく潰し、(略)鳥居を引抜、薦の野へ持行たり。斯るすさまじき者なれば、此辺の者は、何にても疾く倒るゝことを一目連と云。尾勢の里言なり
という、「すさまじき者」と考えられていたようです。
ただ、松浦静山が、この話の結びに、
世に一もくさんと云ふもこの転語なり。
と書いているのは、本当でしょうか???。
左画像は、現在の一目連神社。
多度大社のウェブページ「本宮・別宮 」によれば、多度大社の別宮であり、祭神は御目一箇命だそうです。
*『柳田國男全集 6』(ちくま文庫、1989年)
**『甲子夜話2』(平凡社東洋文庫314、1977年)
***『新日本古典文学大系 第79巻』(岩波書店、1992年)
****国立国会図書館近代デジタルライブラリー
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