(前回より続く)
宗牧一行は、迎えに来た田能村氏とともに、大泉に向かいます。なお、引用は前回に引き続き「東国紀行」*です。
四日。大泉まで。これもほどちかく。あつらの道もおもしろくて着たり。やがて興行。
左図は、1906(明治39)年修正の二十万分一図「名古屋」。
楚原や御薗、北金井といったあたりが、前々回に登場した「大泉原村」。
飯田良一「一揆する人びと」**によれば、田能村氏は、「北方一揆」で、推定城館跡は「大泉城」。
また、 『員弁町史』(1991年)は、近江六角氏系の種村氏が築いた「金井城」が、現いなべ市員弁町大字北金井にあるとしています。
現在、金井城跡の南は、段丘崖と考えられる急崖。田圃を隔てて二百mほど南を、員弁川が流れています。
しら糸をむすふやいくせあさこほり
清瀧川の心ちしはべり。
鶴崎裕雄「「連歌作者層の拡大」***によれば、この発句の本歌は、「古今和歌集」巻十七で、清瀧川の白波を白糸に見立てた、
清瀧の瀬々の白糸繰りためて山分け衣織りて着ましを
さらに、宗牧は「清瀧川の心地しはべり」と言っていますから、員弁川を、京の「清瀧川」に、見立てたということになるでしょうか。
半分は、興行主へのリップサービス、しかし半分は、当時の員弁川に、そのような趣もあったということなのだろうと思います。
四百韻連續。兵部少輔近年一段執心なれば、をのをの此ときを待えたるふるまひにてなどあればなり。
田能村兵部少輔は、連歌に「近年一段執心」だったようです。
では、なぜ彼が、このように連歌を好んだか。このことには、多少の政治的な意味合いがあったのかもしれません。
「座談会 連歌を担った人びと」****における、鶴崎裕雄教授の発言に、
連歌のような寄合の文芸をすることによって、心を一にする、気持ちを一にするという「一揆」の精神が育まれたのではないだろうか。(略)たとえば、三重県の北のほうですが、員弁川あたりの豪族たちが、連歌師の宗牧がやって来ると、彼のもとに集まって連歌をする。それがまさに国人たちの寄合にかかわる。そういう事績が多く見られます。
とあります。
さて、宗牧はこのあと、桑名から津島に向かうのですが、これについてはまた、次回ということにしたいと思います。
*『群書類従 第十八輯 日記紀行部』(群書類従刊行会、1954年)
**稲本紀昭・駒田利治・勝山清次・飯田良一・上野秀治・西川洋「県史24 三重県の歴史』(山川出版社、2000年)
***『国文学 解釈と鑑賞』846号(2001年11月号)。
****『文学』第12巻第4号(2011年7,8月号)