先日、中津川の街を少し歩いてみました。
中津川駅から駅前通りを進み、栗きんとんで有名な「すや」の角を左折すると、旧中山道。
道の左手で郵便局の隣、駅から歩いて7~8分という距離に、「間家大正の蔵」があります(左画像)。
間家(間杢右衛門家)は、中津川の豪商で、屋号は尾張藩から拝領した「丸八」。
島崎藤村の『夜明け前』に、
今まで入荷出荷とも付け送りを
と登場する「角十」のモデルであり、
角十の主人、角屋十兵衛が中津川からやって来て、伏見屋の金兵衛にその仲裁を頼んだ
と出てくる「角屋十兵衛」は、第八代の喜矩ということになるようです。
高木俊輔「幕末維新期農民日記にみる地域情報-大黒屋日記の諸家関係記事について-」*に、
七代が文人で商売を解さなかったため借金が嵩み、次の八代喜矩が塩商いを中心に家財政を立て直した
とあります。
ところで、『夜明け前』では、この「牛方騒動」、
中津川の和泉屋は、半蔵からいえば親しい学友蜂谷香蔵の家である。その和泉屋が角十に替って問屋を引き受けるなぞも半蔵にとっては不思議な縁故のように思われた。
という形で決着をみるのですが、ここで出て来る「蜂谷香蔵」のモデルは、分家にあたる、半兵衛秀矩。
高木前掲論文によれば、本家の間喜矩が、問屋を分家の間秀矩に譲ったのは1857(安政4)年。その後、本家は、質業(金融業)に特化し、成功したようです。
さて、その本家第八代喜矩の子が、第九代の道矩。画像の右下に見える胸像の人物です。
内務省地方局編纂『地方経営小鑑』(1910年)によれば、
地方金融の便を圖らんが為めに、共同して中津川銀行を創立し、或は水利を利用して、製紙の事業を興さんとし、有志者と協同して、中央製紙株式會社を設立せり。其他或開墾事業に、或は電燈會社の設置に、或は道路の改修に、或は製絲業のために、鋭意郷土の發展を促がして、各種の経營を敢てし、
という実業家であり、
三十九年十二月高等女學校の校地及校舎を新築して、之を其町に寄附し、経營費として、二十箇年間毎年金三千圓を寄附するとなせり。
という篤志家でもあったようです。
なお、中央製紙株式会社は1906(明治39)年の設立**で、現在の王子エフテックス中津工場 の前身。
また、中津町立中津高等女学校は、1906年(明治39)年の創立***で、1920(大正9年)に県立中津高等女学校と改称****。現在の岐阜県立中津高等学校の前身です。
左画像は岐阜縣廳『東宮行啓記念 岐阜縣寫眞帖』(1909年)*****より、「岐阜縣恵那郡中津町立中津高等女學校」。
当時の高等女学校としては、かなり立派な建物だったのだろうと思います。
さて、その中津高等女学校を建てた第九代道矩の子が、第10代「成矩」。
今日の本題の「間家大正の蔵」を建てた人物です。
「大正の蔵」は、1917(大正6)年の建築。
中津川高等女学校が木造二階建てであるのに対し、こちらは、近代建築への移行期ということになるのでしょうか、切妻の瓦葺きながら、鉄筋コンクリート構造で三階建て。
さらに、壁に一部が煉瓦タイル貼りという、なかなかに素敵なデザインです。
入口で記帳した際に、いただいたパンフレットによれば、現在隣接する中津川郵便局も、当時は間家の邸宅の敷地であり、面積約3000㎡。
母屋のほか、茶室、土蔵・倉庫8棟、作業所(物置)4棟などが立ち並んでいたそうです。
しかし、現在残っているのは、「旧間家倉庫 」という名称で、市の「有形文化財(建造物)」に指定されている「間家大正の蔵」と庭園のみ。
母屋が取り壊されたのは、1953年頃。敷地が中津川市に寄贈されたのは1992年のことだそうです。
(次回に続く)
*『立正大学文学部論叢 123号』(2006年)
**丹羽邦男・伊藤克司『岐阜県の百年』(山川出版社、1989年)
***明治39年4月10日文部省告示第92号(『官報』6830号、1906年)
****大正9年2月19日文部省告示第60号(『官報』2261号、1920年)
*****国立国会図書館近代デジタルライブラリー