北杜夫に、「神河内」(1988年)*という自伝的短編小説があります。


 舞台は、1945(昭和20)年7月。

 8月1日の旧制松本高校の入学式の前にして、


 一目あこがれていた上高地を訪れよう


という場面設定です。

 

 松高生だったら、いつでも上高地に行く機会はあるような気がしますが、話は戦時中。

 北杜夫によれば、校庭で、入学式の訓示を受けたら、そのまま大町の軍需工場に直行することになっていたそうです。


 同行したのでは、松本市巾上、彼の下宿先の子息、与曽井豊さん。彼らは、朝5時に、島々の宿を出発しました。


 戦時中のためバスもなく、また、徳本峠への道は荒れ果てていて通れるかどうかわからぬと宿の者に聞かされ、より遠いバス道路、九里の道を歩いて、上高地へ向かいます。


 私はひたすら歩いた。白骨温泉への別れ道のある箇所までは島々から五里ほどであったろうか、さすがにその頃から疲労を覚えだした。


「上高地へ 車窓の展望」澤渡
 左画像は、松本電鉄・松本自動車のパンフレット『国立公園上高地へ 車窓の展望』。

 

 中央下が、白骨温泉への道が別れる「澤渡」。同パンフレットによれば、島々から14哩ですから、やはり「五里ほど」ということになるでしょうか。


 山吹トンネルを通り、雲間の滝を過ぎたのは11時半前だったが、河原におりて弁当を食べた。


 画像の中央あたりに山吹隧道があり、対岸に雲間ノ滝が描かれています。

 朝5時に出て11時半前ということは、所要390分。

 同パンフレットによれば、バスが動いていればですが所要75分ほどですから、5倍以上かかっているという計算になります。

 

 なお、このパンフレット、発行年次は不明ですが、右書きのため戦前。かつ、河童橋までバスが乗り入れていますから、1935(昭和10)年以降のものということになろうかと思います。

 

 また、画像中央の「京濱電力湯川發電所」と「梓川電力霞澤發電所」は、ともに1928(昭和3年)竣工**。

 後者の霞澤發電所は、上高地の大正池で取水して導水。同パンフレットによれば「落差1500尺」で、当時「日本一高落差」だったようです。


 話を北杜夫に戻します。


 梓川の清らかな水は逆まきながら素早く流れていた。


五万図「上高地」より山吹隧道  

 左は、昭和五年修正測図の五万分一地形図「上高地」 。

 

 清水谷隧道から山吹隧道にかけての辺り、梓川が典型的なV字谷で流れています。

 

 現在は新道ができて、谷からかなり上を、長いトンネルで抜けていく国道158号ですが、当時は旧道。

 

 弁当を食べるために河原に下りることも可能だったようです。


(次回に続く) 


  
*北杜夫『母の影』(新潮社、1994年)


**日本動力協会『日本の発電所 中部日本編』『同 東部日本編』(工業調査協会、1937年)