享保九年(1742年)、松本藩編述の『信府統記』*の巻六に、保高村の「穂高大明神」に関する記述があります。

 

 穂高嶽ニ鎮座マシマセシト云ヘリ此嶽清浄ニシテ其形幣帛ノ如ク麓ニ鏡山宮川御手洗河水アル所ヲ神合地ト云フ

 

善光寺名所図会より「穂高岳」

 ここで私が興味をひかれることの一つは、穂高嶽を「其形幣帛の如く」と表現していること。  

 

 左画像は、豊田利光『善光寺道名所圖會』(1849年)の巻之一の挿画「安曇郡諸山 穂高岳 奥宮 三霊湖」(部分)。

 

 中央上、岩峰が高く聳えているのが「穂高岳」で、その麓に描かれているのが、「霊湖」(明神池)と奥宮。

 

 

 そして、その穂高岳の左に、

 

 

 卯花や 御嵩は雪の 白幣

 

 

という読みでいいのでしょうか、高嶋東水の句が、書かれています。

 

 

 青木治「穂高神社奥社の成立」**によれば、1692年の文書「穂高三之宮」が、奥社に関する記録としては現存の最も古いものだそうですが、そこにも

 

 穂高岳鎮座云々、此岳清浄而如幣帛

 

 

と書かれているそうです。

 

 江戸時代の人には、穂高岳が「幣帛」や「白幣」の如くに見えたのでしょうか。

  

 さらに、深田久彌『日本百名山』(新潮社、1964年)の「55 穂高岳」には、

 

 穂高岳は昔御幣岳ともいった。空高くそびえる岩峰が御幣の形に似ていたからである。(略)その俊優な姿から古くは穂高大明神の山と言い伝えられ、単に明神岳とも呼ばれた。

 

とありますから、「御幣」という言い方、捉え方もあったのかもしれません。

 小島烏水にも「穂高の御幣岳」(1911年)***という文章があります。

 ただ、彼は、

 

 御幣岳(明神岳または南穂高岳)

 

 

と書いていますから、今日、一般的に「明神岳」と呼ばれる岩峰に限定して、「御幣」岳と呼んでいたということになります。

 

 

 ところで、『信府統記』の記述で、私がもう一つ気になっているのは、「神合地」という表現。

 

 次回は、その「神合地」について取り上げてみたいと思います。

 

 

 

 

*国立国会図書館近代デジタルライブラリー

 

 

 

**『信濃』第37巻第7号(1985年)

 

 

***小島烏水『山岳紀行文集 日本アルプス』(岩波文庫、1992年)