中房温泉 燕岳


 上図は、1930(昭和5)年修正測図の五万分一地形図「槍ヶ嶽」。


 右下に前々回の「中房温泉」、中央下に昨日取り上げた「濁沢」三角点2485.5mがあります。


 さて、その「中房温泉」から「濁沢」三角点に登る、地図中の破線の登山道が、「合戦尾根」。

 大正5(1916)年の登山記録である、松方三郎「燕から槍へ」*に、


 燕には、それから5年して、大正十年の正月にスキーで登ったことがある。もうその時には今の登り路は切開かれていた。


と書かれているので、大正十(1921)年頃に開かれた道ということになるでしょうか。

 

 赤沼千尋が営林署の「合戦小屋」を購入、さらに「燕ノ小屋」を開業したのは大正十(1921)年。「燕山荘」と改名したのは1928(昭和3年)のことだそうです**。


 さて、その「燕山荘」から40分ほど稜線を歩けば、上図の左上、「燕岳」の山頂2763.4mに到着します。


 この「燕岳」、何と読むのかというと、建設省国土地理院『日本の山岳標高一覧 1003山』(1991年)のふりがなは、「つばくろだけ」。


 しかし、1906(明治39年)の登山記録である小島烏水「常念岳に登る記」***は、


 燕岳(土地の人はツバクラ岩と言つて、岳とは呼ばなかつた)


 と言い、


 燕岩の最高點は、こゝから一支を派して、高瀬川を俯瞰するところに、出ツ張ってゐて、三角測量標を樹ってゐる

 

の「燕岩」に、「ツバクライハ」とふりがなをふっていますから、当時地元では、「つばくら」と呼んでいたのかもしれません。


 3年後に出版された、志村寛『高山植物採集及び培養法』(1909年)も、


 中房温泉より燕岳の小舎まで七時間を要す、約四里、小舎は雨露を凌ぐ能はず。


の「燕岳」の振り仮名も「つばくらだけ」。


 W.ウェストンの  The Playground of the Far East(1918)に挿入されている地図 “THE NORTHERN JAPANESE ALPS"の山名表記は、Tsubakura。 

 彼のフィールドノートの翻訳である『日本アルプス登攀日記』(三井嘉雄訳、東洋文庫)は、凡例によれば、彼が日本語をローマ字表記した部分については、カタカナ(ルビ)で表記ですが、「燕山」のルビは「ツバクラヤマ」。

 從って、ウェストンについても、この山のことを、「つばくら」と呼んでいた可能性が高いような気がします。


 ところで1909年に、志村寛が「雨露を凌ぐ能はず」と書いた小屋は、先述の赤沼千尋が改築、1921年に「燕の小屋」となりました。


 1924年の朝日新聞社編『日本アルプス百景』を見ると、「燕岳の頂上近くに在り、アルプス第一を誇る」とか「寫眞現像のための特設の暗室の設備」などと書かれていますから、当時としては立派な小屋だったのだろうと思います。


 その1924年、中房温泉から燕岳に登ったのが、島木赤彦。

 彼の歌集『太虗集』(1924年)の「巻末記」に


 今年の夏は妻と三子とを伴れて燕嶽に登つた。親子揃って高山に登るといふことは、一生のうちにさう多くないであろう。


とあります。

 

 わが齢 やうやく老けぬ 妻子らと お花畑に また遊ばざらむ


 島木赤彦はこのとき47歳。齢が老けた、とか、妻子らとお花畑でまた遊ぶことはないであろう、とか言うには、早いような気がしますが、この『太虗集』は、彼の生前最後の歌集。

 彼はこの2年後、1926年3月に亡くなっています。

 その『太虗集』の掉尾を飾ったのが、「中房温泉」と題された、次の一首。


 高山の 谷あひ深く いづる湯に 静もりてをり あはれ妻子ら


 下山後、中房温泉で入浴したのでしょうか、妻子に対する情愛というか思いが感じられる名歌だなと、思っています。 

  

 *串田孫一編『忘れえぬ山 Ⅲ』(旺文社文庫、1978年)


**菊地俊朗『北アルプス この百年』(文春新書、2003年)


***小島烏水『雲表』(左久良書房、1907年)