1855(安政二)年4月、清河八郎一行は、善光寺を参拝したのち、伊勢参宮に向かっています。
『西遊草』(岩波文庫、1993年)「巻の三」によれば、15日は稲荷山、16日で苅屋原で宿泊し、
早朝宿をいでて、直に刈屋原峠をこゆる。(略)坂をくだりて壱里ばかり歩み、岡田駅にいたる。
このルートは、篠ノ井で北国街道と別れ、洗馬で中山道に合流する北国西街道(往還)。
善光寺詣での旅人が往来する信仰の道でもあったがために、益子輝之「聖道-北国街道・北国西街道-」*によれば、「通常善光寺道と呼ばれ」ていたようです。
壱里あゆみ、松本にいたる。松平丹後守の六万石の城下にして、美事なる繁華の町なり。
松平丹後守とは、松平光則。のちの戸田光則であり、最後の松本藩主なのですが、廃仏毀釈で知られる人物であるににつき、深入りせず、話を先に進めたいと思います。
松本より壱里さきの村井といふ駅より仲仙道となり、岐蘇道に入るなれども、福島の関所ありて女人を通さぬゆへ、塩尻にいで下道といふ伊奈郡を女人の往来とする也。
村井は中仙道ではなく、北国西街道の宿駅。中仙道と合流するのは、洗馬の宿ですから、これは、清河八郎の勘違いということになろうかと思います。
では、なぜ、勘違いをしたかと言えば、おそらくは、彼らが村井も洗馬も通っていないから。
松本より左の方へ入、近道をとり、野村を幾処も過ぎ、三里ばかり歩みて塩尻にいたる。
ということで、「近道」をとっているようです。
松本から塩尻に出るには、北国西街道ではなく、通称「五千石街道」、あるいは「東街道」を通るのが近道です。
したがって、この図の右中央の「長畝」から右下、「塩尻」宿の上町に出たのだろうと思います。
ただ、松本から伊勢へ向かうには、塩尻を経由せず、北国西街道から木曾路に入るのが、実は「近道」。
そこを、なぜ、塩尻に出たかと言えば、「女人を通さぬ」「福島の関所」を避け、「女人の往来とする」「伊奈郡」を通る必要があったから。
生駒勘七「信州十五ヶ宿と木曾十一宿-中山道信濃路」*に、
女性の関所通過は想像以上に厳重であったようで、ただ単に庄屋と旦那寺から発行する往来一札だけでは通行できなかったので、幕末になってから次第に増えてきた善光寺参りの女性たちは、福島関所をさけて、木曽路の南端妻籠宿から清内路峠を伊那谷へ抜け塩尻を経て北国西街道を利用するものが多かったといわれている。
とありますから、母を連れている清河八郎も、福島の関所を避け、伊那谷を抜けざるを得なかったのだろうと思います。
深井甚三『江戸の旅人たち』(吉川弘文館、1997年)にも、
(清河八郎)一行は松本から伊勢へ向かう際に、中山道を通らずに、やはり伊那路・飯田道を使って木曽福島関所を迂回している。
と書かれています。
*『歴史手帖』第十一巻第十号(名著出版、1983年)
