画像は、大正元年測図・同4年発行の五万分一地形図「白馬嶽」です。
左上の三角点は「鎗ケ岳」2903.1m。現在の地形図では「鑓ヶ岳」という表記ですが、基準点名としては、現在も「鎗ヶ岳」。冠字番号は「育20」、三等三角点です。
この鑓ヶ岳から鑓温泉に下山するのが、白馬岳の人気コース。
古くは明治31年(1898年)8月の登山記録である河野齢蔵「白馬嶽に登る記」*においても、
午前九時石室を立ち出で、杓子岳を越え、鑓が岳に登る。(略)見下ろせば山畔湯氣の立ち上るものあり、頂を距ること一里あまり、これが余輩が今宵一夜の宿となすべき岳の湯なり。
とあり、明治37(1904)年の志村烏嶺「白馬岳第一回登山記」**を見ても、
午前十一時、遂に鑓ヶ岳の絶頂に達す。こゝにも参謀本部の三角點あり、眺望の雄大白馬に譲らず。(略)午后一時半温泉に達する豫定なりしも、大いに後れ、五時半、辛ふじて温泉に達するを得たり。
と記されており、この鑓ヶ岳⇒温泉というルートをとっているということがわかります。
では、当時の温泉の様子はどうであったかというと、河野齢蔵「白馬嶽に登る記」*(1898年)では
温泉は二つの渓谷の間にある岩石の間より湧き出づるものにして、深山のことなれば、人家はいふも更なり。湯壺さへ備はらず。土石にて堤を築き、泉を湛へてこれに浴するなり。
志村烏嶺「白馬岳第一回登山記」**
瀑の中途に凹處あり、何人かがこゝに石を積みて作りしと思わるる浴槽あり、深さ胸に達す、
少し、時代が下がって、大正時代の北安曇郡教育会『白馬岳』(1913年)、
鑓岳絶頂より鑓表温泉に至る一里弱。温泉と呼ぶも無人の境にして、岩石の間に湧出する温泉を湛へて浴すべし.
信濃鉄道『日本アルプス案内』(1917年)でも,
鑓ヶ嶽温泉は湧出量多けれども浴舎なく、岩石の間に湛へて入浴することを得
左は、戦前の絵葉書「日本最初の山岳ホテル 白馬山荘」より「白馬温泉」。
浴舎もなく、土石で堤を築いたという感じの丸い泉に、入浴中の男性が写っています。
*北安曇郡教育会『白馬岳』(1913年)
**志村寛・前田次郎『やま』(橋南堂、1907年)