画像は、「大正元年測圖同四年製版」の五万分一地形図「白馬嶽」です。
当時はまだ、四ツ谷駅はありません。大糸南線の神城~信濃森上間が開業するのは、1932年*のことです。
とういうわけで、大町から乗合馬車で、後には乗合自動車で、画像右下の四ッ家(四ッ屋)に向かい、前回取り上げた白馬館などで一泊、というのが白馬岳登山者の一般的な行程でした。
ところで、左は「日本アルプス白馬岳繪はがき 第一集」より、「四谷登」。
発行年は不明ですが、封筒に「長野県北安曇郡北城村 旅館薪炭商 和泉屋」とのスタンプがあります。
和泉屋が旅館を開業するのは、1924年。廃業して建物が白馬館別館として二股に移築されるのが1930年**ということなので、その間に購入された絵葉書、ということにななります。
背中に羽織っているのは着茣蓙で、足元は脚絆、草鞋ばきです。
鐡道省『日本北アルプス登山案内』(1924年)は、「四ッ谷口」では、登山準備所として白馬館と高山館を挙げ、
人夫 一日 二圓
草鞋 一足 十二銭
着茣蓙 一枚 三十五銭以上
味噌 百匁 七銭
白米 一升 三十八銭
と書いていますから、四ッ谷で、着茣蓙に草鞋を準備して、というのが、当時の一般的な登山スタイルだったのかもしれません。
*『官報』第1467号(1932年11月15日)
**長沢武『北アルプス連峰―その歴史と民俗―』(1986年、郷土出版社)