寛政六年三月、本居宣長は、名古屋に向かいました。
「日記」*によれば、
○廿九日 行名古屋、今朝發足、今夕泊神戸
○卅日 泊佐屋
四月小
朔 戊午 今日著名兒屋、旅宿、傳馬町通大津町、
逗留中、晝夜講尺、隔日於西志賀村神職森筑後宅
講尺、職衆、近郷社人也
左図は1907(明治40)年陸地測量部発行の二十万分一図「名古屋」ですが、名古屋城の北に、「西志賀村」が見えています。伝馬町は名古屋城の南ですから、そこから隔日で通ったということなのでしょう。
山中芳和「近世における国学普及の一形態-近世国学の受容と普及に関する教育史的研究・序説」**によれば、
今回は尾張地方の社家が宣長の門人鈴木仙蔵(尾張家中)や植松有信を仲介にして宣長の来名を申し入れたことによる。約20日間の滞在中、宣長は「昼夜講釈隔日於西志賀村神職森筑後宅講釈」などを行った。「近郷社人」が聴衆の多くであったが、名古屋以外の地からも、たとえば遠江の門人栗田土満が聴講したりした。
とありますから、講尺〔講釈)を目的とした名古屋行だったということができます。
なお、名古屋藩士の「鈴木仙蔵(真実)は、版木師植松有信とともに、宣長の大著『古事記伝』の刊行に尽力した人物***。
また、栗田土満 は、遠江国平尾村(現菊川市)の社家の生まれ。賀茂真淵に学び、彼の死後は宣長の門人となりました***。菊川市のウェブサイト「偉人・先人」に「内田で生まれたすばらしい国学者 」として紹介があります。
○ 廿二日 發名兒屋、今夕泊木田村大舘高門宅
○ 廿三日 木田逗留、大舘氏老母六十賀會
これで大舘高門宅には四度目の逗留です。宣長の数多い門人の中でも、心安い間柄だったのかもしれません。
大舘高門の老母の「六十賀会」、おそらくは還暦祝いにも出席しているようです。
○ 廿四日 泊四日市
○ 廿五日 泊津小西氏
○ 廿六日 歸著
*『本居宣長全集 第16巻』(筑摩書房、1974年)
**『岡山大学教育学部研究集録』 80号(1988年)
***本居宣長記念館編『本居宣長事典(東京堂出版、2001年)
