上図は『大阪府茨田交野讃良郡役所統計書 明治27年』(1895年)より「実測六万分一之全地圖」(部分、縮小)。

 

 左下を流れるのは淀川で、その右岸に、牧野村,枚方町、蹉跎村が並び、また淀川には礒島渡と枚方渡があります。

 

 枚方は、江戸時代、淀川水運の中継地として賑わった河港で、

 

 

秋里籬島『河内名所圖會』(1801年)にも、当時の船宿でしょうか、川べりに桟敷を設け、宴席で三味線を弾き、また踊る芸者衆?が描かれています。

 

 

 続けて、上画像は同図会より「出口光善寺」。

 

 枚方市史編さん委員会『新版 楽しく学ぶ枚方の歴史』(枚方市、2024年)を見ると、光善寺(出口御坊)は、枚方市の史跡。

 

 文明七年、蓮如が越前の吉崎から拠点を移し、同10年山科本願寺建立に着手し、光善寺は長男の順如に譲ったということなので、この寺が教団の拠点だった時期があるということになるでしょうか。

 

 

 上画像は、現在の光善寺。

 

 

 続いて、蓮如上人の腰掛石です。

 

 

 さて、松ヶ鼻の地蔵祠より、淀川堤に上がると、

 

 

しばらくは堤防を歩くことに。

 

 

 茨田堤の碑

 

 

 淀川新橋の下をくぐると、

 

 

鳥飼仁和寺大橋。

 

 

 鳥飼大橋をくぐったところで、堤を下り、国道一号線を渡ると、

 

 

文禄堤の案内板。

 

 

 旧徳永家住宅。

 

 守口は、京街道(東海道五十七宿)の宿場町で、

 

 

秀吉が築かせた文禄堤の上で栄えた町。

 

 

 『河内名所圖會』(1801年)によれば、

 

 山城との界橋本金橋より此驛まで通計五里十二町あり、これを京街道といふ

 

 

 京阪の守口市駅近くになると、

 

 

復元された高札場もあり、街道の風情を感じることができました。

 

 吉田松陰『護送日記』*を見ると、嘉永七年(1854年)十月九日、枚方にて「晝支度」の後、

 

夕七時前守口宿へ着止宿之事

 

 そして翌十月十日、

 

 今朝六時過守口宿出立宿ゟ船場迄六丁程行昨夜借切置候船に乗組早速出帆(略)神崎川筋三里九半時着船同所ニ

 

 彼は守口までは陸路だったようですが、翌日、守口の船場からは船に乗り込み、淀川を下り、神崎で「晝支度」。

 

 しかし、私は船という訳に行かないので、陸路、大阪の高麗橋に向かいました(次回に続く)。

 

*『吉田松陰全集第10巻』(岩波書店、1936年)