あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

「私説桶狭間」183回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)

 

本文のエピソード『義元左文字』は、その出自よりも来歴で有名な刀です。

左文字派の祖といわれる南北朝時代の刀工 左文字源慶の作といわれています。

この人、銘に『左』の一文字を切り、それが左文字と呼ばれる所以となっているのですが、この刀には銘がありません。ありませんが来歴を見ると本物であろうことが推測できます。

銘がないのは信長が短く磨き上げたことや何度かの火災にあっていることなどが原因と考えられます。

ただ、この刀の場合、銘が云々よりも来歴のすごさが価値につながっていると考えられます。

 

最初の持ち主は三好政長と伝わっています。

室町幕府管領だった細川晴元の側近だった人物で、現在の大阪市鶴見区から寝屋川市辺りまでの河内十七箇所を統治していました。

刀は三好政長から武田信玄の父信虎に贈られ武田家の所有となり、天文6年(1537)信虎の娘(定恵院)と今川義元が婚姻したとき、その引き出物として義元に贈られました。

義元はこの刀を愛刀として大切に使っていたと伝わっています。桶狭間の際にも佩刀としていたわけですから、事実だと思われます。

 

以降、本文にあるように刀は信長、秀吉、家康と所有者を返還し、別名『天下取りの刀』と呼ばれます。

本文に書いていない説として、本能寺の変のとき、信長の伽をしていた松尾大社の神官の娘がこの刀を持って逃げ、後に秀吉に献上したという話があります。

いずれにしても本能寺の変を経験しているのですね、その刀。

 

刀は豊臣秀吉から嫡男の秀頼に受け継がれ、関ケ原合戦の翌年、慶長6年(1601)徳川家康に贈られています。

『戦国武将年表帖(中巻)』(ユニプラン)をみると慶長6年2月に淀殿と豊臣秀頼母子が徳川家康・秀忠父子を招いて饗応したという記事があります。

きっとこの時に贈られたのでしょう。

徳川将軍家は代が変わるごとにこの刀を継承していきました。江戸城天守が焼け落ちた明暦の大火(明暦3年・1657)のときは刀も焼けましたが、再生したそうです。

 

明治になり、明治天皇が信長に建勲(たけいさお)の神号を贈り、京都市紫野の船岡山に建勲(けんくん)神社が創建されると、16代となる徳川家当主家達(いえさと)からこの刀が寄進されました。

そのような来歴で現在は建勲神社に所有され、重要文化財となっています。