信長はこの刀に愛着をもち、移動するたびに持ち出していたらしい。

 刀は本能寺の変で焼けてしまったが、藤吉郎、後に太閤となる羽柴秀吉が焼け跡から探し出し、焼き直させたという。刀は息子の秀頼に相伝され、関が原の戦いの翌年である慶長6年(1601)、徳川家康に贈られた。

 つまり、義元の刀は天下人から天下人へと伝えられることとなった。そのためこの刀は『義元左文字』と称され、別名『天下取りの刀』とも呼ばれた。

 現在その刀は、信長を祀る建勲(けんくん)神社(京都市北区紫野)の所蔵となっている。

 

 

 戦いに敗れた今川方は悲惨だった。義元討ち死に、という織田兵の声は戦場中に響き渡り、それを聞いたほとんどの兵が浮き足立ち、すぐに戦線離脱を図った。

 今川軍の多くは農民兵だった。そもそも今川家に対する忠誠心は薄かった。そんなことより恐怖心や家に帰りたいという気持ちの方が強かっただろう。我先に尾張から逃げ出そうとしたことが想像できる。

 彼らの多くが三河領に入るまでに織田の兵や落武者狩りの農民たちに追われ、討ち取られた。武具だけでなく身ぐるみ全てを剥がされ丸裸になっている死体が、そこいら中に転がっていた。

 武将にしても事情はあまり変わらない。

 グズグズしていると自らの命が危うい。敗軍の将の武具と頸を狙う落ち武者狩りが出てくるためだ。近隣の村人や僧兵だけでなく、自らの奉公人さえも裏切る可能性がある。

 とにかく自領に帰る。その思いが強かっただろう。

 朝比奈親徳はこの戦いで生き残り、その時のことを記した書状が残っている。それによると彼は鉄砲で負傷したようだ。義元討死の場に居合わせず、面目を失ったと書いている。

 朝比奈泰朝も命を長らえ、掛川城に戻ることが出来た。彼はその後も今川家に仕え、氏真に従った。今川家の家臣の大半が氏真を見限ったときも、彼は愚直とさえいえるほどに忠義を尽くした。

 今川氏滅亡後の泰朝の行方は分かっていない。一説には松平元康の家臣酒井忠次に仕えたとも、北条氏の小田原城に逃れたとも伝えられている。

 泰朝の元で鷲津砦を攻略した井伊直盛は奥山孫一郎という家臣の介錯で自刃したと伝えられている。井伊家の菩提寺である龍潭寺(りょうたんじ)に彼の墓があり、彼と共に討死した16人の墓も同じ墓所にある。

 

 織田家家臣である太田牛一が書き残した『信長公記』にも今川家家臣の記述がある。

 山田新右衛門は戦場からは少し離れた場所にいたのだろう。義元討ち死にの報を聞き、馬を返して戦い、討ち死にした。

 松井宗信は本人だけでなく、一門一党2百人が討ち死にしたという。

 黒末川の河口に船団を待機させていた服部左京進は、何の働きも出来ずに引き返した。帰りがけに熱田の湊に船をつけ、町に火を掛けようとした。しかし町人たちがどっと攻めかかり、数十人を討ち取ったので、左京進たちは仕方なく河内に引き上げたという。

 

 大高城の松平元康は、今川兵が戦場から逃げ散る中、しばらく大高城に残っていた。物見に出ていた兵によって義元討死の報は届いていたが、確証を得るためと混乱した中で大高城を出るのは得策ではないとの考えで、夜になってもまだ城を出ずにいた。なによりも不安感が強かったのだろう。

 すると元康の元に意外な人物が来た。水野信元(のぶもと)の密使で、浅井六之助と名乗った。

 

 

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