月も変わり、6月となった。
陽も高くなり、ますます日中の気温も暑くなり、あともう1ヶ月も経てば、夏到来である。
地球温暖化の影響で日本の気候は、ほぼ亜熱帯の様相を呈しているが、こと東京ではその熱さ特有の不快感をことさら強く感じる。
東京のもつ人口的な佇まいが、夏の不快感と気持ち悪いくらいにマッチングし、肌に纏わりつくように思えるのだ。




とはといいつつも、僕もすでにこの不快さに慣れたもので、東京の夏は今年で、はや8年目を迎える。
昨日からクールビズが始まったそうだが、僕が東京の夏と8年も対峙しているなんて驚きである。
たいした人生ではないが、広島の片田舎で生まれ育った僕が東京で生活を始め、結婚もし、家も購入するとは、ついぞ8年前の自分には思いもよらぬことであった。
人に歴史ありとは自分自身が自らを振り返ったときに感じる想いなのだろうと、最近ふと思ったりする。

歳をとったのだろう。




最近、テレビドラマの恋愛ものを観ていた妻が、こう云った。


『恋愛って、なんで結婚でしか成就できないんだろうね?』


恐らくハッピーエンドで終わるドラマしかない昨今の恋愛ドラマを受けての発言であろうが、僕はそれを受けて妻にこう云った。


『今はドラマにもならくなったが、死で成就する恋愛もあるんだよ。それが心中だ』


彼女は、ふーんと頷いただけで、再びドラマのストーリーに戻っていった。
たわいもない夫婦の会話ではあるが、僕としては珍しく心に残る会話であった。




それからしばらくして、僕は営業中、とぼとぼと歩きながら、ふと妻との会話を思い出した。
恋愛は、生きて成就されるものと、死して成就されるものがある。

例えば、仮に成就しない道を選んだとしても、別れは生への選択肢であろう。
別れることで、お互いの別々の生を選んだことになるからだ。




そもそも考えてみれば、恋愛に限らず、僕たちがする全ての行動は、生か死のいずれかに根ざしているような気がする。
今僕がこうやって営業しているのは、食うためであり、つまり生に根ざしたものだ。
飲み会に行くのも、生きることを謳歌したいがための行動であり、これも生だといえる。
フットサルをするのも、楽しむため、体力の向上のためにするのであり、これも生だ。

例えばセックスはどうであろうか。
性行為を楽しむためのセックスであれば、これは間違いなく生といえるが、しかし子供を作るためのセックスは、死に根ざしてるといえないだろうか。
いつかは死ぬであろう自らの遺伝子を残す行為としてセックスを捉えれば、これは最終的には死に根ざしているといえる。




いずれにせよ、僕たちは生や死を意識することなく生活をしているが、しかし僕たちの行動はすべてこのどちらかに縛られているのだ。




そんなことを考えながら、僕は日比谷線霞ヶ関駅で、電車に乗った。

僕を載せた電車の行き先は、生なのか死なのか、どこに向かっているのだろう。