facebookの友人の佐橋美香さんが出演する「チョリコ」を観劇した。

以下に いくつか印象というか、記憶に残ったシーンを取り上げて、自分なりの解釈を書こうと思う。
酔っぱらっているので、(友人と一緒に観劇し、そのあと”利しり”でラーメンを食べ、飲みにいったのである。)
書き方が断定にすぎるかもしれないがご容赦願いたいのと、これから観劇する方にはネタバレ注意を喚起いたします。(さらにはあくまでも私個人の解釈でありますので、余計にまずいかもしれません。)

黄色いベンチに座ることで、作家志望の青年 星乃虎太郎は、「地図にない場所」に迷い込む

そこは、フロイト的な下意識の世界であった。
私のブログの読者は、こういうときに私が、いつもミッシェル・フーコーを引用するくせがあるのをご存知かと思う。
フーコーの3部作といわれる「言葉と物」、「狂気の歴史」、「監獄の誕生」 という本の題名をだすだけで、例の二項対立のことをいうのだなと察しのつく方がいらっしゃる。

先日、ある人から、哲学者の言葉に置き換えても お前の知識自慢にしかならないといわれたので、今日は心理学者
のラカンに登場願うことにする。
(同じか?)

星乃が迷い込むときに言われるセリフ
がある、パンフレットにも書かれているので、正しくはそちらを参照願いたいが、
「タトエバ、その数少ない個体の方が成功なのかもしれないのに、それを判断するアナタ方が数多い当たり前側の個体である為に、奇抜な生体を異常者扱いしているだけなのだ…だからっ! キサマらが失敗なんだよっ!」

この劇の通底に流れるものは まずは、健常者と狂気の対立であるともに、その枠組みそのものへの問題提起でもある。

哲学的なテーマであるので、ミッシェルフーコーがピタリとくるのであるが、そこは過去の自分の拙ブログを参照いただくとして、今日はラカンに登場してもらうことにした。

腋毛をそる 話がでてくる。
腋毛を剃る行為の理由は、
女らしさのためであるというが、
女らしいという基準は、社会や、世間が決めたことである。
それに従うことに対する疑問である。

ラカンは、フロイトのエディプスコンプレックス構造を受けて、意識の流れを想像界、象徴界、現実界に分けて解釈した このため独特の言い回しが多いのであるが
ラカンは次のようにいう

人間の欲望は、他者の欲望であると

他者とは誰かとえば、いろいろなのだが、その中でも、大文字の他者という言い方をする。無理やり書けば
大文字の他者とは、社会や宗教上の神とか世間とかで本人が現実界において信じているところを指す。

その神の命令に対して、まるで自分が欲望して選択したように振る舞うのである。

ブレヒトの「イエスマン」や能の「谷行」のように、、、

女らしさの基準を取り払ってしまえば、腋毛はそらないでいいはずなのだが、大文字の他者が剃れといえば、当たり前のように そして、自分の欲望として引き受けて剃るのである。

ここで、本来の自分の欲望と対立するのだ。

フーコーは、言葉と物にも
同じ恣意性があるといった(あ、出しちゃった 酔っ払ってるので・・・)

犬という動物が、「犬」と呼ばれる理由はどこにもない

言葉の本来もつ機能が、いぬ(シニフィアン)と犬という動物(シニフィエ)を無理やり結びつけてしまうのだ。

これを嫌うと、今度は、困った問題が起きる。自己同一性も崩壊してしまうのだ。それを防ぐためにチヒロは、記憶を書きとどめ続けなければならない。

そうして歴史は作られてきたし、
制度も築かれてきたことにジレンマがある。父性の制度に従うことを嫌うことができれば、もしかしたら、人間は幸せなのかもしれぬが、それは、颯馬と貴子の自分の立場を捨てる 彼女彼氏という制度から降りることになり。究極には、プールの中で小便をすることなどにつながる。つまり、自然といったいになることであるが、自分の境界線をも融解させることにつながるのである。
または、テルテルがいう 自由にすることが幸せなのか
といえば、それも疑問が残る。
無限の選択の中から選ぶことは、
(これはサルトルの実存主義の思想そのものである)
人間の制度として許されないがそれができたとしても、実は持て余してしまう。 幼少期の記憶のないあるいは父の命令をうけていないテルテルは、それゆえに思い悩む。自分はだれだ?
その悩みが解放に向かうのは、自分が何者であるかを名付けられたときからである(輝輝になった)

制度や歴史は、線香花火が着火から消えるまで、まるで、そのフェーズに従うようにたどることであるが、その折々の感受性は 決められた基準に抗う

若さとはそういうものであり、それに検閲が入る(フロイトの夢判断)
のも制度としては当然である。
またセリフの中では無政府主義者と結びつけられていた。


ところが、システムの過剰がなければ進化などありえないのである。
制度が身体に障害を持つものを排除したようにある一定の秩序で安定すると、その中でもまた排除すべきものができてしまう この連鎖は止めなければならぬ。

この秩序と混沌、ロゴスとカオス、言葉と本能の二項対立のジレンマを解決することが。
貴子のいう新しい世界を作ることである。

その手段の象徴として、縄跳びがあったんだと思う。

とにかく回すのだ。

ーやめなさい
<ーやめたら終わってしまう
ーじゃあ普通に跳びなさい
<ー普通にすると終わってしまう

自分なりの跳び方で、世間がなんと言おうと生き続けること
生きることを引き受けること

(村上春樹のダンスダンスダンス
を想起しました)

父性の代表である「青木さん」の死によって 自立を促された世界は、
制度と戦い、これと上手く折り合いをつけること、一体となったことで、乗り越え、新しい世界をつくる意識を共有したところで 劇は幕となった。

演者の方はみなさん素晴らしく
上手で、テンポも セリフのタイミングも つまりは劇の命である 呼吸も よく、
むつかしいテーマであったが、最後まで飽きることなく興奮して観劇できました。


演者のみなさんに最大の拍手を送ります。

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