ゼレンスキーを支援する動きへのけん制
おはようございます みなさん




オーストリア議会でゼレンスキー氏が演説も
議員20人が集団退席 フランス、ドイツ、イギリスでも
「ウクライナ支援」停止を求めるデモが続く

2023.04.07ザ・リバティweb


《ニュース》

ウクライナでの戦争をめぐって
西側諸国にさらなる支援を求めるウクライナのゼレンスキー大統領に対し
各国で「不支持」の動きが続いています



《詳細》

欧州・オーストリアの下院議会では3月30日
ゼレンスキー氏によるビデオ演説が行われました



これを受けオーストリア自由党の議員20人以上が
演説が始まると共に集団で一時退席し
「不支持」の姿勢を強調しました

英BBCやロイターなどが報じています

これまでもゼレンスキー氏が各国議会で行った演説に対し
議員が欠席したり
拍手を拒否したりすることはありましたが
(関連記事参照https://the-liberty.com/article/20188/)
退席は初めてとのことです

オーストリアは政治的にはウクライナを支援していますが
国家として「武装中立」の立場をとっています

自由党議員らは
ゼレンスキー氏による議会での演説が
「我が国の中立主義と一致しない」として
「中立のための空間」「平和のための空間」と
記した札を机に置いた上で
集団で退席しました


親露傾向が指摘される自由党は以前から
北大西洋条約機構(NATO)によるウクライナ支援に
批判的な姿勢をとってきました

ゼレンスキー氏の議会演説に先立つ2月1日には
オーストリアのファンデアベレン大統領が
キエフを訪問して支援強化を約束しており
自由党のキックル党首がこれに対して批判声明を発表

以下のように述べました

「中立国の大統領の任務は
このひどい戦争を交渉で早く終わらせるよう主張することであり
さらなる戦争の要求をすることではなかったはずだ」
「最優先すべきなのはオーストリアとその国民の利益であり
欧州連合(EU)やNATOのエリートからの称賛ではない」

オーストリアに限らず欧州各国で
ウクライナ支援に反対する大規模な抗議デモが続いています


フランス・パリでは2月下旬
「平和を求める国家的行進」として2週連続で1万人規模のデモが行われ
同様のデモがフランス全土30カ所ほどで起きたとのことです

一連のデモはウクライナ支援に抗議すると共に
米主導のNATOからフランスが離脱することも求めています


ドイツ西部カイザースラウテルンでも2月
数千人のデモ隊がラムシュタイン米空軍基地に向かって行進し
ウクライナで戦争の火種を煽っている米政府の役割を批判

英ロンドン中心部でも2月
ウクライナへの武器支援停止を求める抗議デモが起きています




EU諸国は長期にわたるウクライナ戦争で

かなり疲弊している様子がうかがえます

西側諸国のプロパガンダ報道がバレてきています



それは

この戦争の最前線であり要衝であるバフムートでの撤退は

ウクライナが追い詰められていることを明らかにしています



終わりのない戦争は

大量に兵士や人々の死が増えるばかりで無意味です



ゼレンスキーは後へ引けなくなってきているのでしょう

武器供与や支援金の無心より

勇気を持って和平交渉に応じるべきです



今日の光の言霊は【梵天勧請】です

ゼレンスキー大統領に梵天勧請はないでしょうが

逆に悪魔からのささやきはあるかもしれません



釈迦に法を説いていただくように【梵天勧請】がありました

3回の【梵天勧請】でようやく

法を説いていただけるようになった



この度の主エル・カンターレへの【梵天勧請】

梵天ではない「地上の弟子たちの勧請」です

相当の祈りの力がなければ叶えられないことなのでしょう



しかし

「祈り」には次元を超えた力があります

それをどこまで信じ切れるかにかかっています









 

【梵天勧請】






「梵天勧請」
があったという話が
遺っています




「梵天」
というのは
インドでは
特定の神の名前を
指すわけではありませんが

現代流には
「高級諸神霊」
と表すべきものかもしれません




その
「梵天」
が釈尊に対し

「どうぞ
迷える衆生のために
その尊い法をお説きください」
とお願いをするわけです




しかし

一度お願いされても

釈尊は

「はい
分かった」
とは
言いませんでした




「いや
難しかろう」
ということで
断ります




二度目の
梵天勧請があったときにも

断りました




さらに

「ぜひ
衆生を救うために
その尊い法をお説きください

法輪を転じてください」


三回目のお願いをされます




梵天から
山塊のお願いをされた釈尊は

「難しいかもしれない」
と思いつつも

「この難しい法を
どうやって
教えたらいいのか

まだ
方法論的には
分からないけれども
まあ
何とかして努力しようか」
ということを

ようやく考えるわけです













HS

 
『本物の信仰』p103
 
 

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