おはようございます みなさん
じわりじわりと押し寄せてくる
新型コロナウィルス=武漢ウィルスの脅威
今日のニュースでは芸能界の大御所
志村けんさんが陽性と診断され
一時重症だったようです
詳しくは下記の記事にリンクしてください
"https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200325-00000505-sanspo-ent"
志村けん、コロナ陽性で都内病院に入院中…一時は重症に3/25(水) 3:00配信サンケイスポーツ
お茶の間の有名人がコロナ感染となると
ますます身近に感じられますね
毎日数十人の感染者の数が増え
実際のところはどこにどれほどの感染者がいるのか不明で
軽症の人などを入れたら相当数になるのでしょう
ただ
いたずらにPCR検査を徹底して行い
軽症者や症状のない人まで隔離してしまうと
当然医療崩壊につながると思いますし
軽症者の方もさらに院内感染などで
重症化する可能性もあるでしょう
巷には
軽症者や無症状の人もいると仮定して
自分自身で防護するしかないようです
そのあたりの感じ方や対策は
欧米と日本の民族性の違うところでしょう
このままいけば
世界各国が鎖国状態になるでしょう
人・物・金・情報の回転が滞り
世界中が発展繁栄から遠ざかりつつあります
その意味することは
昨日のブログの通り
世界大恐慌の始まりが来たということでしょう
経済破綻だけではないようです
昨日の繰り返しになりますが
大変な食糧危機が襲うようです
人類試練の時です
この現代社会の今の状況は
原因と結果の法則に照らし合わせても
破滅に向かっているということでしょう
こうなってしまったのには
どこに原因があったのか
それは何度も言ってることですが
信仰心の薄れから来ています
現代ほど人類の有史のなかで
神仏から心が離れてしまった時代はありません
神の子である人間が
神を親だと思っていない
今さまざまに起きている現象は
ただの自然現象だとか
科学で証明できないものは無いに等しい
そのように考え思って
神は死んだという人間さえ現れ
その言葉を信じる人が増えてきている
人間はこの世に偶然に生まれて
機械のように動きまわり
偶然に男女が結び付き
自然の摂理によって子供が偶然に生まれてくる
その偶然のサイクルさえ分からないまま
生まれては死んでいく
脳で考えることがすべてだと思いこみ
心の存在を脳が考え出すことだと思っています
愚かです
しかし
悲しいこと起きたら
胸が痛むと言います
嬉しい時には
胸弾むというでしょう
脳で考えることがすべてであるならば
なぜ
脳が痛まないのか
なぜ
脳が弾まないのか
なぜ
胸なのでしょうか
恋愛を経験した人は
胸がキューンとなるはず
なぜ脳がキューンとならないのですか
美しい景色や
美しいメロディーに触れたときに
脳で判断しているのでしょうか
心が和み
心が安らぐのではないでしょうか
脳は目で見たことや耳で聞いたことを
どのように見えてどのように聞こえたかを
判断しているだけの優れた人間のAIの部分です
その美的感覚や芸術性を判断するのは
心でしかないのです
その心にある基本的な主体は
霊体が感じ取っているのです
体はあくまでも物体であり
目が故障したら目が見えなくなり
耳が故障したら耳が聞こえなくなるのです
しかし
心の目で見て
心の耳で聞くことは
不可能なことではないのです
眼・耳・鼻・舌・身・意
五感で感じ取り六感で心に刻む
最後の意識の部分が心に一番近い部分で
表面意識と潜在意識に分けられます
表明意識はこの世的なる心の意思であり
潜在意識こそが霊的なる意識です
人間がただの機械と同じようなものであるならば
今後数十年もすれば
AIロボットのほうが
はるかに人間がする作業より正確で優秀になります
その時
人間はAIロボットに使われ奉仕するようになるのでしょうか
唯物主義や唯脳論・無神論者の敗北は
その時に決定的になるでしょう
それらの優秀な機械やロボットを信仰する人々は
機械やロボットの奴隷となるのです
それを愚かなことだと言っているのです
AIロボットは人間を越えることは
どこまで科学が進化しようともあり得ません
その決定的な違いは
人間は神の子であり
神が創られた存在であるからです
そして
AIロボットは人間が神によって造られた人間に似せて
人間が造った物なのです
ロボットには心が入っていないのです
仏性である心が宿っていないのです
この心がすべてであり
心の中にこそ
神仏と同じものがあり
創造する力があるのです
現代に現れたる事象は
神仏が人間に
目を覚ませ
心の目でいかなることが起きているのか
また
今後何が起きようとしているのか
その心の目で見
心の耳で聴いて
確かめよと言っているのです
自分たちが日ごろ
何を見て
何を聴いて
どのように感じ思っているのか
今一度
心を澄まし
振り返ってみることです
いったい自分たちは
何を思い感じ取っているのか
機械的な感覚ではなく
人間を創られた神の心に照らし合わせて
判断する時が来ています
それが
【正しい信仰観に基づく考え方】
だと私は思うのです
【正しい信仰観に基づく考え方】
正思(しょうし)
というのは
思いの世界に
関するものであり
具体的にいえば
心のなかで
考えていることの内容が
正思なのです
それは
やはり深い洞察を
含んだものでなければ
ならないと思います
要するに
自分自身の内側を
見つめていき
一日のあいだに
心のなかで
何を考えてきたかを
見ていくのです
正しい信仰観から見て
それは正しい考えで
あったのだろうか
また
縁起の理法から見て
自分は正しい考え方を
したのだろうか
そうした
考え方をすれば
悪しき種を蒔いて
大変なほうに
行くのではないだろうか・
このように
一日のあいだに
心のなかに
去来(きょらい)したことを
振り返りながら
仏法真理に
合っているかどうか
仏の教えに合っているか
どうかを
点検していくーー
これが正思です・
…世の中には
考えることが
できない人が大勢います
常に手先だけで
動いている方
ものごとを
条件反射的にしか
判断できない方が
大勢いるのです
しかし
自分の心の中を
見つめられるように
なれば
たいしたものです
HS
(仏陀の証明p28)
八正道の心 『黄金の法』講義2 (幸福の科学大学シリーズ) [ 大川隆法 ]